まるさんの資料置場

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焼失したはずの明治天皇御座所のゆくえ 小林敏夫

聖蹟蒲田梅屋敷公園余話

 

御座所はいまでもありますよ

 私がまだ広報課に在籍していた昭和五十五年二月のある晴れた日、広報課に聖蹟蒲田梅屋敷公園のことなら、なんでもよいから知りたいという恰幅のよいご老人が突然訪ねて来られた。梅屋敷の由来 (  史誌十三号参照 ) などを話しているうちに、くだんのご老人が谷中にある瑞輪寺の住職で小林顕栄さんとおっしゃること、梅屋敷のことを知りたくてきたのは、戦災で焼失したはずの梅屋敷にあった明治天皇御座所が、さる篤志家からの寄進でいま寺の境内に移築中であること、などがわかった。

 

定説は戦災で焼失

 聖蹟蒲田梅屋敷公園にかつてあった明治天皇御座所は、これを記述した多くの刊行物で明らかなように戦災で焼失したというのが定説である。しかも当時、同公園の管理人であった白須浅一氏が書いた『聖蹟蒲田梅屋敷』によれば、焼夷弾で御座所と茶屋本屋が炎上してい様子が克明に記録されており、疑いの余地がないことである。

 

 この話をしても小林さんは、とにかく信頼できる実業家からの寄進であり、いま寺の境内に移築している最中なんだからといい、さらにこの篤志家のお屋敷には、御座所のほかに菊花の御紋章を彫った銅製の釘かくし、御簾などがいまでも保存されており、梅屋敷から移植した見事な梅の古木がまでも花をつけますよと語られた。

 

 まだ寄進されるまでの経緯については、戦前ニキビ取り美顔水などの化粧品会社を営んでいた(株)尚美堂の社長 坂本一郎さんが、国道建設により二分された梅屋敷のうち海岸寄りの土地・御座所を含む建物・池など二千五、六百坪を買受けた、そして昭和十二年(株)竹中工務店に依頼し、御座所の一部を世田谷区尾山台の自邸敷地内に移築するとともに跡地をライオン歯磨(株)に売却したという。

 

 尾山台の邸宅は、坂本一郎さんの歿後、甥の古賀勝人さんの手に移り、同氏が昭和五十年に谷中の瑞輪寺へ寄進するまでの間、大切に保存してきたもので由緒ははっきりしているという。

 そうして小林さんは「百聞は一見に如かず」といいますから是非見に来てくださいといわれ帰っていかれた。

 

半信半疑で御座所見学

 これがもし事実なら‥‥戦災で焼けた建物は‥‥。真相を知りたいという気持ちを抑えかねた私は、取材活動を開始した。

 まず手始めに三月に入ると谷中の瑞輪寺を訪ね御座所を案内してもらった。御座所は既に移築作業がおおかた終わり、内部の仕上げの段階に入っていた。そして玄関を外側から見た限り、梅屋敷にあった往年の御座所の写真とはほとんど変わらないという印象を受けた。

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瑞輪寺に移築された建物の玄関

 

 足掛け四年この移築を手掛けてこられた棟梁の石原国次郎さんはこんな結構な普請は、民間人が金にあかせて建てたいといってもできるもんじゃありませんよ。構造といい、材料といい、権力のある人だから造れたんでしょうね。この建物はそんな普請ですよ。といい、さらにもう東京中探しても、こんな普請を扱える大工はそんなに数いませんよ。と語っていた。

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同内部 ( 右は欄間 )  

 御座所を見て普請の素晴らしさをうかがっても、ずぶの素人の私には十分に理解できず、半信半疑のままで帰路についた。

 

年表をつくって手掛かりを探る

 客観的に立証できなければと、取材の範囲を広げ、次に(株)炊けない工務店に移築したという記録でも残っていればと思い、探してもらったがなんとも古すぎて見当たらない。所有権移転の推移から手掛かりが得られればと法務局を調べたが、この面からも事実を裏付けるなんらの確証も得られなかった。さらに昭和八年ごろから旧蒲田区区役所に勤労していた区役所OB氏に聞いても、あそこは建物が幾つかあり、御座所と呼ばれた建物もあったが、そんなに古いものとは思えなかった。という程度の印象しか持っていない。そこで視点を変え、いままで集まった情報を年表にしてみたら新たな手掛かりが得られるんではないかと思い年代順に調べてみた。

 

【梅屋敷関係の主な年表】

区史などより

文政年間

  • 大森の山本久三郎、この地に三千坪を求め、梅の名木を集めた庭園をつくり、和中散という薬を売るとともに旅人相手の休み茶屋を開く。
  • 文政の終わりごろ梅屋敷と呼ばれ繁昌し、梅林を拡張。
  • 建設年次不明、二階建茶屋本屋、坪数不明 (国道改修に際し、旧道に面していたのを方向転換した)。
  • 建設年次不明、小亭 (志士会合所) 二十坪四九の平屋造り ( 国道改修に際し移転した )。

明治元年十月

  • 明治天皇の御東幸に際し内侍所造営、京間二間半、間口三間とあるがその他不明。大工棟梁野沢右門氏、明治六年第四回行幸の際には既に廃棄されていた。

明治元年

  • 明治天皇の御東幸に際し御座所造営、京都御所内小御所を模し、八畳四間続き、建坪三十八坪。
  • 宮内省内匠寮、樋口正俊氏が設計、大工棟梁伊藤万作氏、(国道改修に際し、国道左側の車・歩道の位置から移転 )。御用済みの建築材料はすべて山本久三郎へ下賜。

明治三十二年

  • 梅屋敷の園主山本氏は、高田氏に梅屋敷を譲渡。
  • 高田氏の手で庭園の整備が一層行き届く。

? 年

  • 高田氏没、没後梅屋敷は第百銀行に譲渡。管理が行き届かず梅屋敷の荒廃はじまる。

明治三十四年

  • 京浜電鉄・六郷橋から大森海岸を経て国鉄大森駅を結ぶ路線開通。梅屋敷に及ぼした影響不明。

大正九年

  • 梅屋敷は第百銀行の手を離れ、京浜電鉄の所有となり、敷地の一部が軌道敷となる。庭園の荒廃は一層著しく、建物等腐朽にまかせるのみ。

大正十二年

  • 関東大震災。梅屋敷内の建物すべてに京浜電鉄関係の被害者が一般住民が移り住み、荒廃その極に達す。

大正七年~昭和二年ごろ

  • 旧東海道の拡幅改修工事が計画 ( 大正七年 )。九か年を費し、京浜第一国道が完成 (国道のより梅屋敷二分 )。

大正十四年

  • 京浜電鉄は梅屋敷の土地分譲をはじめる。
  • 蒲田町を中心に明治天皇聖蹟保存会を設立。梅屋敷の土地分譲を阻むとともに、その一部を買取り、園内整備をはじめる。

昭和二年ごろ

  • 明治天皇聖蹟保存会、ほぼ現敷地規模一千三百三十四坪 ( 四千四百二・三平方メートル ) を買い取り、庭園修理建物の修復を行う ( 御座所の西側移転・茶屋本屋・小亭の移転修理 )。

昭和八年

  • 文部大臣、明治天皇聖蹟地として梅屋敷を保存指定する。

昭和十三年

  • 明治天皇聖蹟保存会、敷地、建物を東京市に寄付。

昭和十四年

  • 東京市立聖蹟蒲田梅屋敷公園が開園。

昭和二十年

  • 御座所・茶屋本屋とも戦災で焼失 (四月十五日)。

昭和二十八年

  • 聖蹟梅屋敷公園の管理、東京都から大田区へ移管。

昭和四十七年

  • 小亭 ( 志士会合所 ) 焼失 ( 五月十一日朝 ) 

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昭和初期の梅屋敷と建物 ( 古賀勝人氏所蔵写真 ) 

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瑞輪寺に移築された建物

 

小林住職の話から

大正未年~昭和三年ごろ

  • 国道建設により二分された梅屋敷のうち、海岸寄り二千五・六百坪を、御座所を含む建物ぐるみ(株)尚美堂社長 坂本一郎氏が買取る。

昭和十二年

  • 坂本氏が御座所の一部を、(株)竹中工務店に依頼して世田谷区尾山台の自邸敷地内へ移築するとともに、梅屋敷跡地をライオン歯磨(株)に譲渡。

昭和十二年

  • ライオン歯磨(株)は、梅屋敷跡地に社屋を建て、本社並びに営業所を移転 (『ライオン歯磨八十年史』)。

昭和十八年

  • ライオン歯磨(株)は、本社・営業所とし本所区に移転。

昭和二十三年

  • 大田区は、ライオン歯磨(株) (梅屋敷跡地) を建物ぐるみ、日本理化工業(株)から買収し、蒲田支所とする。

昭和五十年

  • 世田谷区尾山台の古賀邸内 ( 旧坂本邸 ) にあった御座所、台東区谷中の瑞輪寺に寄進きまる ( 十二日 )。

昭和五十五年

  • 瑞輪寺三代目棟梁石原国次郎氏の手により解体、運搬、建立。

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明治天皇御東幸当時の梅屋敷絵図 ( 東京府観光協会『聖蹟蒲田梅屋敷』より )

 

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昭和14年当時の梅屋敷公園 ( 東京府観光協会「聖蹟蒲田梅屋敷」より )

幾つかの疑問に遭遇

 年代別に並べて対比してみると、幾つかの疑問に遭遇した。

 その一つは、梅屋敷が京浜電鉄の所有となった大正九年ごろから明治天皇聖蹟保存会が設立され、管理体制が整う昭和二・三年ごろまで。この間は関東大震災により被災者が移り住み、建物は荒れ放題、多くの文化遺産が散失している。さらに京浜第一国道の拡張整備による梅屋敷の敷地は二分され、敷地の一部が分割売却されるなど景観も著しく変貌している。この時、建物を移転しているが、果たして無傷だったんだろうか。‥‥

 その二は、明治天皇御東幸に際し、内侍所と御座所の二つの建物が造営されている。内侍所は明治六年に廃棄されたというが、この建物はどうなったのか。その行方は‥‥。

 その三は、御座所造営に際して使った建築材料の残りは園主山本久三郎氏に下賜されている。この残り材料で建物ができたら‥‥。

 

いまだ霧の中の御座所

 瑞輪寺に移築された建物は、御座の間を中心として御座所の一部なのか。それとも梅屋敷にあった、ほかの建物なのか。戦災で焼けた御座所とは、ほんものだったのか。疑えばきりがない。取材をはじめてから既に半年余を経た。

 断片的な事実を積み上げてみたものの、いまだ核心にふれられず納得いくに至っていない。改めて事実を追求することの難しさを痛感している。

 そこで現在、短絡的な方法かも知れないが、構造、素材等を宮大工など専門家の目で見れば、ある程度判断できるのではないかと思い、明治神宮崇敬会の田中氏のご好意で検討をお願いしている。

 なお手掛かりとなった梅屋敷関係の建物の変せんは、明治神宮崇敬買いが昭和四十三年に発行した「聖蹟蒲田梅屋敷」によった。

 また事実を詳しく知るため、著者の白須浅一氏に会いたかったが、残念ながら昭和十八年にこれを書きおろし、さらに昭和二十年に焼失したという御座所の部分を書き加え、戦後はその行方が杳として知れないという。

( 大森東特別出張所長 )
 
大田区史編纂委員会編『史誌 14』昭和1980 年 (昭和55年)  12月発刊 p.37~40より