まるさんの資料置場

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蒲田梅屋敷の今昔 林 信孝

梅の名所蒲田梅屋敷

 蒲田梅屋敷はその名のとおり梅の名所として江戸時代文政の頃から現在まで、蒲田の地に風雅を添え多くの人々をなごませ楽しませてきました。古来より蒲田周辺は梅園が多く、「江戸名所図会」 (天保七年 1826年 江戸須原屋刊行」には「此地の民家は、前庭後園共に悉く梅樹を栽ゑて、五月の頃其実を採りて郡下に(ひさ)ぐ」とあります。

 

 この梅の木に関する由来は、天慶 ( 平安時代 ) の昔、関東の名家 平良文の娘、梅姫が蒲田の豪族蒲田貞武に嫁ぐとき、良文は姫の縁組を記念するため、娘の名にちなんで梅の木を京都より移し贈ろうと親縁の村岡五郎忠雅に相談しました。ちょうどこの頃、筑紫の配所大宰府でなくなった菅原道真公の霊を慰めるため諸国より梅の名品を集めていると聞き、そこで時の左大臣藤原仲平に斡旋を頼み、 菅廟 ( かんびょう ) へおさめるはずの梅の木数株をもらって、梅姫へ贈りました。この多くは関西の梅の木で、関東に移された最初のものといわれています。

 

 江戸時代にもなると蒲田は梅の産地として有名になり、江戸の人々の愛好した梅びしお・梅干はおおよそ蒲田の産であったといわれています。梅の花が咲く時期になると、丘も畑も雪のように白く美しく色どられ、清い香りはあたりに快よく漂ったといわれています。梅園の多かった蒲田周辺においても、特に梅屋敷は東海道に面していることもあって有名になり、江戸時代後期の頃には繁盛を極め、城南の名勝とうたわれました。

 

 ここで梅屋敷の推移についてふれたいと思います。

 梅屋敷は江戸時代文政の頃 (1818年--1829年) 村人山本忠左衛門が和中散 (漢方のかぜ薬) の家屋敷三千坪を買い求め、梅の木数百株を植え、その他杜若 (かきつばた)などの花木を植え、東海道の休み茶屋をつくったことにはじまります。この梅屋敷の庭園造成の経過については明確には資料に残っていません。

「忠左衛門の息子の山本久三郎がつくった」という説もあります。「十万庵遊歴雑記」 ( 津田大浄著 文政十二年 1829年 ) には、「‥‥右の方取付の家を和中散忠左衛門と号し、近年居宅の後の広庭一円に、数百株の梅樹を植えならべ、隅々には山吹を植込、泉水の中には杜若夥しく‥‥」 ( 弐拾七、蒲田新古両所の梅見再遊 ) とあり、山本忠左衛門が和中散の店舗を構えていたことがうかがわれます。

当時、東海道に沿って、蒲田、大森近辺に和中散の店舗が三店ありました。この三店がいずれの店も和中散の本店と主張していたとされています。山本忠左衛門が、この地に和中散の店を構えるために土地を取得して、そののち庭園をつくり、休み茶屋をつくったのか、和中散の店が以前からあり、山本忠左衛門がその店を引き継いで、そののち庭園をつくり休み茶屋をつくったのか、はっきりといたしません。これより後の天保八年 (1837年) に書かれた「江戸名所花暦」 (須原屋版) には「蒲田和中散梅林」と題して、「品川の先なり。後園梅樹のもと一めんの池にして、杜若を植えたり。四月のせつより咲きはじめて、十月の末までたえす。」とあります。ここで和中散の薬について一言ふれておきます。この薬の効力は水あたり、寝冷、食傷、霍乱 ( 日射病の類 ) に即効があり、旅人のたよりになったといわれています。

 

 梅屋敷は文政のおわり頃にはますます繁昌して、梅林を拡張したとあります。この頃には、もはや一服一泉 ( 銭 ) の茶漬店ではなく、十二代将軍家慶の鷹狩りのご休所になるくらいの大きな屋敷になっていました。そして、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、とくに梅の開花期、杜若の開花期には非常なにぎわいをみせたとあります。このような名所となりましたので、天保期頃の画人 安藤広重の「江戸名所錦絵」の一つに「蒲田里梅園」として梅屋敷が描かれました。また、文久三年 (1863年) には十四代将軍家茂のご上洛の途中のご休息所となりました。江戸時代末期の梅屋敷は外国の人達の旅行記などにもでてきます。この中でも梅屋敷をよく表現しているのはアーネスト・サトウの記録です。この文を抜き出してみますと「六郷を越えて二マイル、梅屋敷という有名な遊園地に着き、そこで数人のひじょうに美しい乙女たちの給仕をうけた。当時東海道を旅行する人で、少しでも見えを張ろうとする者は、季節のいかんを問わずみなここに足をとどめて、麦藁色の茶を飲み、煙草をふかし、給仕女をからかったりしたものだ。いろいろな魚の料理や、あたたかい酒 ( 米のビール ) もあった。赤い顔をした日本の紳士が、昼間の軽い遊興を終えて駕籠へからだを折り曲げて乗ろうとするところは、よく見かける図であった。ヨーロッパ人は普通ピクニック用のバスケットを持参して、この梅屋敷で中食をしたものだが、たとえ遅く出た時でも何とか口実を作っては、ここの魅力に富んだ美しいお茶屋に立ち寄るのであった。‥‥妙にごつごつした木が一杯に立ち並び、葉は全く見られないが、かすかな芳香を漂わせている紅白の優しい花が枝を包み、地は一面に落花の雪でおおわれている。屋敷には黒い柵をめぐらしてあるが、この中へ入ることがどんなにうれしいか、驚嘆の喜びともいうべき感情は、実際に入った人でなければ理解できないだろう」 ( 岩波文庫 坂井精一訳「外交官の見た明治維新」より ) とあります。この文には外国人 ( アーネストはイギリス人 ) のみた初春の梅屋敷の美しさ、風情がきわだって印象的にあらわされています。

 

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京浜急行開通 ( 明治34年 ) 当時の梅屋敷 ( 『京浜急行八十年史』より )

 

 また、この頃、梅屋敷の料亭には、諸国の勤王の志士達が風流な遊びと銘うって、時事を談じるために集まることが多くありました。こうした会合の中で梅屋敷事件といわれる歴史的な事件がおこりました。文久二年 (1863年) 十月二十三日、攘夷の勅命に従わない幕府の態度に憤激した人々は、英公使オールコックを殺害し、横浜異人館を襲撃し、攘夷のもとをひらこうと謀議したけれど、これが土佐藩士武市半平太の急報により公卿三条実美、土佐藩主山内容堂の知るところとなり、彼等の説得により何事もなく済みました。こののち、志士一同はこの梅屋敷に酒宴を催して、その席上長州藩士周布政之助は土佐藩主山内容堂が長州藩士達の暴挙を阻止するために、長州藩世子毛利元徳に事を告げ藩士を論したことを思い、酔って山内容堂を非難したため、土佐藩士小笠原唯八は憤激し、周布政之助を斬ろうとしましたが、長州藩士高杉晋作、世子毛利元徳の陳謝と山内容堂の広量によって、刀を抜くことなく終わりました。これが事件の概要ですが、明治維新以後になって、少壮志士だった明治政府の高官たとば、ここに立ち寄り、かつての密談などを懐かしく思い出して遊楽したといわれます。また、この頃に佐久間象山、小原鉄心等の熱血の詩人が梅屋敷を訪れ、詩歌を詠みました。

 

 題 蒲田梅園壁 佐久間象山

七集天船来聖東 江東官吏太倥偬

梅花不識人間事 依旧清芬咲海風

 

 このような詩にうたわれた梅屋敷は、明治時代になり、明治元年 (1868年) から明治三十年 (1897年) の間に、天皇の九度のご行幸がありました。天皇はことのほか、梅屋敷の梅林の風致を好まれ、明治六年 (1873年) 三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて、後に人々に愛されたといわれます。この頃にうたわれた和歌のうちらは次のようなものがあります。

 

【和歌三首】

子爵 藤波言忠

駒なめてかまたの梅をとはしけむ

御ゆきのあとのいまもかくはし

 

御歌所寄人 千葉胤明

梅の実のうますつくさむさみたれの

ふるきみゆきのあとをのこして

 

御歌所寄人 阪正臣

みてうゑのうめの青葉にいそとせの

むかしの花をしのふそのかな

 

 天皇のご行幸により、聖蹟となった梅屋敷は多くの人々が来訪して、にぎわいつづけていましたが、明治二十二年 (1889年) 東海道本線が全通した頃から、街道の往来も少なくなり、やや影がさすようになりました。明治三十一年 (1898年) には園主山本氏は園地を高田氏に譲り、高田氏歿後、梅屋敷はいよいよ荒廃し、ついに大正九年 (1920年) 京浜電軌鉄道用地となり、園地はすべて同社所有となりました。この頃になると、往時の梅屋敷の風情は地におち、林泉はこわれ、訪れる人も少なくなりました。さらに梅屋敷の一部は京浜国道の拡張により道路敷となってけずられ、園景は一変しました。これを見かねて地元の大友笠州氏は復興を提唱し、大正十四年 (1925年) 蒲田町を中心として、明治天皇聖蹟保存会を設立しました。この聖蹟保存会は園地を整備し、敷地一三三四坪を取得して、国道沿いに後向きになった御座所建物を西側に移し、和中散母屋を移転整理し、さらに樹木その他池石の改修などをおこない、維持管理にあたりました。こうして、昭和八年 (1933年) 十一月二日、この蒲田梅屋敷は文部大臣より、明治天皇御聖蹟地として保存指定を受けました。こののち、聖蹟保存会は当梅屋敷を永久に維持保存するために、昭和十三年 (1938年) 十月に敷地全部、および建物一切を保存会会長大島健一氏、並びに侯爵蜂須賀正氏の名で東京市に寄付しました。東京市は同月六日これを受領し、ただちに全国の整備改修に着手しました。東京市は正門と外壁の補修、植物の捕植、園路の改修をおこない、地元有志の寄付を受けた野梅三十本余りを植えて、昔の梅屋敷の姿を復元しようと努めました。そして、昭和十四年 (1939年) 十月十二日、明治天皇行幸記念の日に史蹟公園として、聖蹟蒲田梅屋敷公園が開園されました。

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現在の聖蹟蒲田梅屋敷公園

 昭和二十八年 (1953年) 五月二十九日に聖蹟蒲田梅屋敷こう園の管理が東京都から大田区に移りました。大田区は昭和三十一年 (1956年) 十一月に江戸時代末期に志士がたびたび談合するため集まった茶室が老朽化していたので改修をおこないました。そして、来園する人の多くが風雅な由緒ある茶室で一時を過ごすことを望んだので、区はこのため昭和三十七年 (1962年) に茶室の一般公開をおこないました。これ以後、公園の茶室は旧志士の家として、訪れる人々のいこいの場所となって利用されていましたが、昭和四十七年 (1972年) 五月十一日朝、心ない人のために焼失してしまいました。現在、茶室のあった所は四阿 ( あずまや ) となって、休憩所に変わっています。

区は昭和四十一年 (1966年)  池の全面改修をおこない、昭和四十三年 (1966年ママ) に園内の整地、園内灯の増設、塀の改修、角力場の移設等公園の全面的な改修整備をおこない、梅の木八十本を捕植しました。また、角力場は昭和五十年 (1975年) 三月に現在の姿に整備しました。四阿も角力場と同時期に整備し、梅林や池がよく眺められるようになっています。昭和五十三年には池の部分を改修し、とどこおって汚水が溜り公園の風致をそこなうことのないように、水が循環するようにしました。現在の聖蹟蒲田梅屋敷公園は北西側に国道一号線の道路がありますが、それでも園内は静かで風雅なたたずまいをみせ、梅の開花時期には特に多くの人々でにぎわっています。最後に、現在の聖蹟蒲田梅屋敷公園の概略を書いてこの文のおわりとします。

 

所在地  東京都大田区蒲田三丁目25番6号

面積   四三六四・六六平方メートル

     忠魂碑 一

     戦没記念の碑 一

     句碑 二 

     石灯篭 一

主な施設 弓道場、角力場、池、四阿

梅の木  紅梅、白梅あわせて七十六本

交通機関 国電蒲田駅から徒歩十五分

     京浜急行梅屋敷から徒歩五分

(大田区土木部公園課長)

 

大田区史編纂委員会編『史誌 13』昭和五十五年 (1980年) 六月発刊 p.43~49より