まるさんの資料置場

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評伝 小山清 3 町っこ 35 千束尋常小学校

 

 1915年 ( 大正4年 ) 、大阪から帰京した小山は、兄と共に幼稚園に通園した。その幼稚園は根岸にあり、「鶯谷へ出る途中のやっちゃ場 ( 青物市場 ) の近くにあった」 ( 「思ひ出 ) というから、市立根岸尋常小学校附属の根岸幼稚園 ( 中根岸29 ) のことだろう。根岸幼稚園は1889年 ( 明治22年 ) に創立され、台東区最古のものである。1908年 ( 明治41年 ) に同じ浅草区に生まれた女優沢村貞子の、当時幼稚園に行く子供は「地主さんかお医者さん、金貸し、質屋なざのお金持ちの坊ちゃんお嬢ちゃんだけであった。それでなければよっぽど大事なあととり息子」 ( 1976年11月暮らしの手帖『私の浅草』 ) を引くまでもなく、幼稚園は少なかった。そして、小山が幼稚園に通ったということからも家が裕福であったのがわかる。通学には子守が付き添っていた。

 小山は「はにかみや」( 「思ひ出」 ) で、はじめは玉入れなどの競技も他の子供たちと一緒にできなかった。やがて慣れてきて、ふざけて叱られることもあった。

 先生が弾くオルガンの音に合はせて輪になつて歩きながら、自分ひとり草履の爪先で歩くやうな真似をした。附添の人達が見てゐる前で。後で私は先生から叱られ、懲のために教室の戸棚の中へ閉込められた。
同前より

 この時、戸棚の中で退屈した小山は唱歌を歌い出し、呆れた先生が戸棚から出したという。幼稚園での生活は楽しいものだったようだ。

 やがて1918年 ( 大正7年 ) には、東京市千束尋常小学校 ( 千束町2-261-305 ) に入学した。千束小学校は1906年 ( 明治39年 ) に創立された。校舎は二階建てで、校庭にはレンガを敷き詰めてあり、当時としては非常にハイカラであった。開校の1906年には16学級である、600余名が学んだ。これまで千束町の学童は市立千英小学校か、公立では距離のある浅草、富士、待乳山の小学校に通学していたので、公立で、しかも町名と同名の千束小学校が開校したことへの、地元町民の喜びは大きかった。

 児童数は増え、それに伴い1909年 ( 明治42年 ) 以降は学級数も21、23、26と増加していった。そのため1、2、3年生は午前・午後の二部授業を行わねばならなくなった。入学後最初の授業がある日、学校に向かう小山に対して「上級生の1人が私の袴の紐に下げてある手拭のうへに書いてある組名を見て、私の組は昼組だと云つた。その頃、午前中に授業を受ける者のことを朝組と云ひ、午後から行く者のことは昼組と云つた」( 思ひ出 ) とうるのは、このような事情をふまえている。

 当時、同校には音楽教師として中山晋平がいた。校歌は彼の作曲である。小山の同級生には、府立第三中学校でも一緒になる伊藤勇 ( 俳号、伯翠 ) がいた。伊藤は三中在学中に肺結核を発病し、卒業後鎌倉で療養した。この時、高浜虚子撰の「日本新名勝俳句」 ( 東京日日新聞 ) に感動して、自ら俳句を作るようになった。『ホトトギス』に投稿、やがて虚子より同人になることを許された。後年、『花鳥』を創刊主宰し、虚子の「花鳥諷詠」を体し、客観写生を志した。

 小山に中山晋平の回想はないが、『伊藤伯翠自伝』( 1991年9月 鬼灯書籍 ) には晋平の様子が記される。音楽の時間にチョビ髭の若い男の先生が幼稚園卒業生に手をあげさせ、2、3人手をあげた中の伊藤に「何か遊戯をやってみよ」と命じた。伊藤は「京の五条の橋の上」と歌いながら、牛若丸と弁慶の踊りをした。晋平は笑いながら、伯翠の頭をなでたという。小山も数少ない幼稚園出身者であり、晋平の前で何かやったのだろうか。

 長野県師範出の訓導杉本茂晴は図画、手工、童謡が得意で千束小学校に野口雨情、山本鼎を招き、研修を行った。その結果、千束小では図画における手本教育、模写教育が否定され、自由画の指導がされるようになった。小山が「図画の時間には、私達はよく先生に引具されて、観音さまに写生をしに来た。私達は境内のそこここに陣取つて、思ひ思ひに、観音堂を、五重塔を、六角堂を、弁天山の鐘つき堂を、めいめいその画用紙の上に写し取つた」