まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

評伝 小山清 2 両親 32 キリスト教

 

 小山の家は三社様の氏子だった。三社祭で、子供時代の小山は「あの網の模様のついたそろひの浴衣を着た」 ( 1956年1月『うへのあさくさ』「浅草 ) 。また、貸座敷業廃業後も、その頃の縁起を祝う習慣が残っていて、灌仏会などの年中行事も大切にしていた。灌仏会では、小山は大音寺に甘茶を子守といっしょに貰いに行った。帰宅後は虫除けのまじないで「千早振る卯月八月は吉日よ、さきがけ虫を成敗ぞする」という文句を紙に書き、台所の柱に貼り付けた。また、兼次が外出の折には、神棚の上の火打石を取って、「背ろからかちかち云はせた」 (「家」) 。小山家は、このように年中行事を守り、民間信仰や縁起担ぎも行っていた。

 そんな小山家にあって、兼次とつたは富士見町教会に属すキリスト者であった。「1926年 ( 大正15年 ) 12月1日調」と表紙にある『富士見町教会会員名簿』の「下谷 浅草区」のところには「小山兼次 浅草区千束町2-425」「同つた 同」と2人の名前と住所が記されている。

 富士見町教会は1887年 ( 明治20年 ) 、植村正久によって創建された。最初は番町 (一番町 ) 教会と称され、後に富士見町に新会堂がつくられたことで富士見町教会と改称された。

 2人の受洗年は関東大震災及び太平洋戦争時の空襲で教会の資料が消失し、明らかではないが、兼次が植村から受洗しており、つたも兼次の影響で受洗に至ったという。幼い頃の小山も両親の手で富士見町教会に連れられて行ったとも言われる。

 兼次がどのようにしてキリスト教に接し、また植村から受洗するに至ったのか、つまびらかではない。しかし、生家が貸座敷業を営んでいたことから考えると、興味深いことである。なぜなら、貸座敷業者にとって、キリスト教は廃娼運動のイメージが強かったと考えられるからである。

 1872年 ( 明治5年 ) 娼妓解放令が出されたものの、各府県の貸座敷取締令によって公娼制度は存続された。それに対する廃娼運動はキリスト者、自由民権論者によって進められたが、とりわけキリスト者の活動は大きいものだった。日本最初の廃娼運動は群馬県で開始され、その推進力となった上毛連合青年会の会員はキリスト者が多かった。また安中教会の婦人会も活躍した。群馬県会に娼妓廃止の建議案を提出したのは安中教会の湯浅治郎であった。

 1886年 ( 明治19年 ) に誕生した東京夫人矯風会は平和・純潔・禁酒を目標に、一夫一婦制の請願を続けると共に、廃娼運動を推進した。また、厳本善治は『女学雑誌』誌上で、精力的に廃娼論を展開した。さらに、名古屋メソヂスト教会の宣教師もルフィは、自由廃業運動を起こし、法廷闘争を展開した。

 救世軍もこの運動に呼応した。1900年 ( 明治33年 ) 、救世軍日本司令官ブラード大佐、書記長デュース少佐、山室軍平はモルフィり自由廃業の方法や手続きなどの説明を受け、東京でも実行したのである。まず京橋区築地に、軍平の妻機恵子を所長とする婦人ホームを設けた。さらに、同年8月には、醜業婦救済号として編集した『ときのこゑ』( 1900年8月 ) をもって、救世軍の一隊は品川、新宿、洲崎、新吉原、板橋、千住の四宿二廓を軍旗を先頭に、太鼓、ラッパ、タンバリンを演奏しながら進撃した。『ときのこゑ』の売れ行きはよかったものの、楼主側によって買い占められた。そのため、街頭演説を繰り返し行った。さらに、一隊は新吉原に向かった。この時、街頭演説をしていた一隊は、楼主側のやとった暴漢に襲われ、血だらけにされるという被害を受けた。この事件は『時事新報』『東京朝日新聞』『東京毎日新聞』などで取り上げられ、『東京毎日新聞』は力を入れ、社説でもその行動を激賞した。これら救世軍の活動によって、神奈川県川崎の遊郭の娼妓2人が婦人ホームに助けを求めてきた。新吉原では、中米楼の娼妓のところに、山室機恵子が単身でやって来て、廃業の手続きを教えた。そして、この運動によって、1900年10月には娼妓取締規則の制定に至った。これによって、娼妓の廃業は警察へ出頭して口頭での届け出のみで可能となり、廃業する者が続出した。その数は、月末までに新吉原、洲崎、品川、新宿、新橋、板橋、千住などをあわせて450名を超えた。新吉原の松大黒楼では、10名の娼妓の内、8名が同時に廃業し、楼主は逆上し耳が聞こえなくなったという。この廃業の動きは地方にも広がり、九州随一の規模で、1000人の娼妓がいた東雲楼では、その数がおよそ三分の一に減少した。

 貸座敷主にとって娼妓の自由廃業は死活問題であり、救世軍教は天敵と言っても過言ではなかろう。貸座敷業を生業とする家で、救世軍と同じキリスト教を信仰しているということは、兼次におけるキリスト教の大きさを物語っていよう。もしかすると廃娼運動を通じて、兼次はキリスト教に接するようになったのかもしれない。兼次は「配慮される人」だったというが、受洗は自己の強い意志だったと思われる。兼次にとってキリスト教は自己の運命を変えるものに映ったのだろうか。兼次がキリスト者になったのはおそらく自分を取り巻く環境と異なる世界をキリスト教に求めたためではないだろうか。浅見淵は「小さな町」 ( 1952年2月『文学界』 ) に「清冽な印象を受け、いささかも退廃に蝕まれていない」と感動し、その理由を「中学時代に洗礼を受けたりした清純なものへの志向が、のちのちまでも長く残っていたからではないか。また、それは生まれつきのものであると共に、幼少年時代に育った猥雑な生活環境に対する反撥が、かえって一層その志向を助長せしめたようにも看取される」とする ( 1970年2月『日本短編文学全集』第44巻、筑摩書房「鑑賞」 ) 。「清純なものへの志向」は両親にも共通すると言ってようだろう。