まるさんの資料置場

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評伝 小山清 2 両親 24 小山と母

 

 そんな家庭の中において、母つたの生活は平安なものではなかった。

 母は昔よく私にいひました。何度家を出ようと思つたかわからないと。けれども母はその度に、私が不良少年になるかもしれないと思つて、思ひをひるがへしたのださうです。母は嫁として辛い立場にゐたのです。 ( 略 ) 母はまたいひました。自分は辛い思ひをしてきたから、嫁には優しくしてやりたいと。母は情の人で、使用人からも心から慕はれてゐました。
「幸福論 ( 完 ) 」より

 つたは「何度家を出ようと思ったかわからない」と述懐した。「嫁として辛い立場」にいて、「辛い思ひをしてきた」と言う。

 一家には私達が原町の叔母さんと呼んでゐる人がゐた。父の妹で、他家へ嫁いでゐる人であつた。母はこの原町の叔母さんのことを、義理の妹であり、小姑でもあつた人のことをよく云はなかつた。 ( 略 ) 祖母とこの叔母対母の間に敵対の感情があるのを、子供の私は監事てゐた。そして私もその渦の中にゐた。私は母の側にゐた。子供の私はなにも解らなかつたけれど、自分が母の側の者であると云ふことを感じてゐた。そして私の子供の気持ちはいちばん母にくつついてゐた。
「弟と母のこと」より

 嫁姑の関係が母の「辛い立場」と思われるが、なぜ両者がそれほど対立しなければならないのか。単純な嫁と姑の争いではないのかもしれない。小山も「その渦の中にゐた」ために、愛されなかったということになろう。母の死後も「祖母はまた依然として私に対して意地が悪かつた」 (「前途なほ」) と相変わらず小山を憎んだ。母の死後は、母への憎しみの分も小山にぶつけたようである。

 小山は祖母が自分と母を憎む理由を知ったのだろうか。もし知ることがあったとしたら、小山はその理由を作品の中で明らかにしていないことになろう。

 私の気持ちはいちばん母にくつついてゐた。母は私をきつく叱つた。私は母によく僕たれた。折檻された。兄はそんなに叱られなかつた。私はときに泣きながら母に、母が兄のことを叱らないで、自分ばかりを叱ることへの不服を訴へたりした。自分ばかりが叱られることへの不服の心も確かにあつた。けれども、そう口に出す気持ちの感傷的なものであることは自身感じられたのだ。母が自分をきつく思つてくれてゐることは、私は本能的に感じてゐたのだから。
 その後、記憶に残つてときに頭を掠めることに…。やはりなにかで叱られたか、若しくは自分の願ひが退けられたかして、私は愚図ついてゐた。母は台所で何か用をしてゐた。私は茶の間にゐた。ほかに誰もゐなかつた。私がをさまらぬ気持で愚図ついてゐるのを、母は相手をせず用をしてゐた。その母に向けて、私は遂にこんな言葉を口に出した。「まるで継母みたいだ。」口に出してしまつた。私は流石にひるんだ。その言葉を耳にすると、母はすぐ飛んできて、手をあげ私を僕ち続けた。私は、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と、恐さと済まなさから云ひ続けた。
「弟と母のこと」より

 小山は母が自分を「きつく思つて」いたのを「本能的に感じてゐた」。つたは小山に対しては他の兄妹とは異なる特別な思い、繋がりを持っていたということになろう。だから、小山を「きつく叱った」のだろう。そして、愚図ついた小山の発した「継母みたいだ」との言葉は、つたのその思いを裏切る言葉だったのだろう。それがつたに小山を「僕ち続け」させたと思われる。

 小山と母は特別密接な関わりがあったと言える。しかし、見落としてならないのは、つたは「何度家を出ようと思ったかわからない」点である。小山の小学校時代と思われるが、母、小山、兄、弟、弟の子守で潮干狩りに行ったときの出来事が「弟と母のこと」に記される。母、弟、小森は休憩所に残って、小山と兄が海に入ったが、小山は兄とはぐれてしまった。小山は大急ぎでもどり、ようやく母達のいる休憩所を見つけた。ところが、母達の姿はなかった。

 よく見ると、手荷物はそこに置きつぱなしになつてゐる。けれども、私は不安で胸がいつぱいになつた。母達はそこに私ひとりを置き去りにして、もう帰つて来ないのではなからうかと。私はわあわあ声に出して泣きながら、小屋の中を駆けずり廻つた。やがて、母達は散歩から帰り、兄はまた獲物を持つて引き上げてきたが。
「弟と母のこと」より

 この記述は小山には「置き去りに」される「不安」が心中にあったことを示唆しよう。

 さらに、次の出来事も潮干狩りのそれと相通じるだろう。関東大震災で罹災した小山一家は水神の八百松に世話になった。その時、母は毎日のように外出し、しばしば帰りは夜遅くなった。

 私はそのつど母のことが心配になり、家にぢつとして待つてゐることが出来なかつた。私は隅田川を通ふ蒸気船の発着所まで出向いて、そこにあるベンチに腰かけて、母の帰りを持つた。いくつか船を見送つた後で、やうやく母の顔を見出しては、ほつとして共に帰つた。母を迎へに行く途中、隅田堤を通つてくるが、提の下にある二階建ての明りのついた障子の中から、酒に酔った男達の騒ぐ声が聞こえてくることがある。そんなとき私には、その中で母がいぢめられてゐるのではなからうかといふ妄想が起きてくるのだつた。
「同前」より

 蒸気船が着くたびに、小山は母の姿を探しただろう。しかし、姿がないと、小山の「心配」は次第に大きくなっていったものと思われる。母を迎えに行ったのは、帰りの遅い母の身を案じるというだけでなく、このまま戻ってこないのではないかとの恐れを読みとってよいように思われる。さらに、「母がいぢめられてゐるのではなかろうかといふ妄想」は家庭内における母の立場が生み出したのだろう。

 自分と強い繋がりのある母は突然いなくなるのかもしれない。言い換えれば、母に捨てられるかもしれないとの不安が小山の心の底には存在したと考えられる。母について考える時、小山と母との特別とも言うべき関係、祖母と母の対立、それと関連すると思われる祖母の小山への憎しみなど疑問点が表れる。これはなぜか。

 1956年 ( 昭和31年 ) 、小山を中心として同人誌『木靴』が発刊された。その同人の中には小山から謎めいた言葉を聞かされた者が1人ならずいる。小山は「自分は暗夜行路のような生い立ちだ」と語ったというのである。暗夜行路とは志賀直哉の『暗夜行路』であろう。『暗夜行路』のような生い立ちとは主人公時任謙作のそれを思い浮かべてよいのではないか。とすれば、小山は自分を時任謙作のように祖父と母の間にできた子供と思っていたことになる。もちろん小山本人を含め関係者が没している現在において、このことの真偽を明らかにするのは困難である。小山の「妄想」(「弟と母のこと」) かもしれない。しかし、40歳代の小山の心の中にあったことを留意しておくべきだろう。そして、祖母との不仲、他の子供と異なる密接な母娘関係、母に対する祖母の憎しみなどを説明する仮説となり得るのかもしれない。