まるさんの資料置場

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評伝 小山清 2 両親 20 祖父母

 

  小山は祖父のことを「桜林」「思ひ出」で語る。「桜林」では、次のように記す。祖父は三業取締の役員を一時つとめ、「二六新報の企画した娼妓自由廃業の運動の際にも、また救世軍がその遊説の太鼓を廓内にまで持ち込んだ時にも、間に立って調停の役を勤めたとかいふ話である」。そして、小山の子供時代「家でいちばん頑張つてゐ」て「母屋から渡り廊下のついてゐる離れに起臥してゐたが、そこから家内中に号令してゐた」。「お山の大将のやうなもの」で、祖母はかげで「うちの代官さま」と言っていた。盲目でおとなしい兼次に代わって「隠居である祖父の威勢が家内中を圧してゐた」。祖父は「こはもてのする人柄」で口やかましかったが、「大根の気性がさつぱりしてゐたからだろう」が、出入りの者や女中の「気受けは悪くなかつた」。しかし、「なにかといふとすぐ「馬鹿野郎。」と大喝一声」し、怒鳴られなかったのは兼次だけだった。小山も学校の斡旋する貯金箱をしつこく母に欲しがった時、「「馬鹿野郎。子供のくせに、いまから金をためることなんか覚えて、どうするんだ」と百雷の轟くやうな声」で一喝され、また幇間の口上を家で得意になって披露した時にも怒鳴られた。

 「思ひ出」によれば、祖父は「相当な喧屋」で、「左の二の腕に桃の実の小さい刺青」があった。「骨董道楽」であり、小山の目には「まんざらでもなかったやうな気がする」。また、「器用な質」なようで、兄や小山のために、木片に船を彫ったり、竹細工に渋皮をはって飛行機の模型を作ったりもした。

 祖父についてとりわけ注目すべきは、祖父と小山との間 ( つまりは兼次との間にも ) には血縁はなかったと記しているところである。

 家の門口には父の名の標札のほかに祖父のも懸つてゐた。祖父の姓は私の家のではなかつた。祖父と私達とは血の繋りはなかつた。祖母との間に父を設けた人が離縁になつてから、祖父がきたのである。祖父は私の家と籍を別にしてゐて、菩薩所なども違つてゐた。他家に嫁いでゐた叔母は祖父との間に生れた人で、この人は家にゐるときは祖父の姓を名乗つてゐた。嫁ぎ先が牛込原町にあつたので、この人のことを私達は原町の叔母さんと呼んでゐた。父と叔母はそんなに年の隔たりはなかつたから、祖父が私達の家にきたのは父がごく幼かつたときのやうである。
「思ひ出」より

 祖母あぐりは兼次の実父と離縁した後、現在の祖父にあたる人物と暮らすようになった。祖父と小山家とは籍も姓も別であった。祖父と祖母との間には一女があり、その子は祖父の姓を名乗った。兼次とその子供との年齢差はそれほどなく、「祖父が私達の家にきたのは父がごく幼かつたときのやうである」と小山は推測する。兼次は1885年生まれということからみて、祖父母が暮らし始めたのは1885年から1890年頃だったのではないか。後年失語症を患った小山を献身的に世話した辻淳は小山の祖父は高木政だと私に教示してくれた。とすれば、『細見』の若竹楼楼主・高木新之助があぐりの実質上の夫であり、小山一家と暮らした祖父に当たるのではないだろうか。そうだとすると、加禰は高木 ( 高木新之助 ) と暮らすあぐりを養女に迎え、兼次を跡取りとし、加禰自身も共に暮らすようになったのではないか。そして、その時、若竹楼を譲り受け、兼東楼と改称したように思われる。

 小山は兼次の実父については次のように記す。

 祖父は私が四年生のときに死んだが、祖父の死後、樺太のおぢいさんといふ人が尋ねてきたことがあり、子供の私達も引合された。けれども私はその血の繋りのある人に対して、その後も続いて疎い気持ちしか起きなかつた。そのときの印象に格別のことがあつたわけではなく、たゞ私の気持ちの中だけで常に見下すものがあつた。祖母とその人とのことを母が口汚く云つた悪口が、子供の私の心に侮蔑の念を換んだのである。祖母はその人に対して相当酷い仕打ちもしたらしいのだが、祖父が芯で、またその人を家に迎へたりしてゐたのである。樺太のおぢいさんのもとからは、折にふれて海産物の小包が送られてきた。
「思ひ出」より

 「樺太のおぢいさん」にあたる人物が兼次の実父とみられる。祖母は「樺太のおぢいさん」に「相当酷い仕打ちもしたらしい」。おそらく家から追い出してしまったのではないか。このことから、祖母は厳しい性格だったとみてよいだろう。

 祖父母について特筆すべき点は、「祖父母達は私を愛さなかった。殊に祖母は、兄に対してとで、分け隔てを露骨に示した」(「弟と母のこと」) と小山を「愛さなかった」ことである。とりわけ「祖母は私を愛してゐなかつた」( 1949年3月『表現』「前途なほ」)。小山の中学校入学後は祖母との中は非常に険悪となり、その結果、小山は一時期家を離れた。二人は敵対する関係にあり、改善することはなかった。母の死後には、「家の者と大喧嘩をやつてしまひました。僕は祖母の背中をどやしつけました」 (「わが師への書」) と暴力まで振るったのである。こうしてみてくると、小山の家は経済的には裕福であったが、その内部は複雑だったとみるべきだろう。