まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

評伝 小山清 2 両親 19 母つた

 「私の気持ちはいちばん母にくっついてゐた」「母の心は私にあった。私は母の子供であった」 ( 1954年10月『群像』「弟と母のこと」) と小山は母と自分の深い関係を語る。

 つた ( 1889年 ( 明治22年 ) 生まれ ) は「丸髷などのよく映る別嬪」 ( 同前 ) で、「情の人で、使用人からも心から慕はれてゐ」 ( 1953年6月『新潮』「幸福論 ( 完 ) ―再び美穂によせて」⇒「再び美穂によせて」 ) たが、その生い立ちは複雑だった。

 母は妾の子であつた。 ( 略 ) 母は幼くして他人に貰はれたやうで、三四歳の母が、母を養女にしたといふ男の人に手を引かれてゐる写真もあつた。 ( 略 ) 母は信州の下高井郡のさる人のもとで成人した。
「弟と母のこと」より

 つたは幼くして養女となった。信州で成人した、つたがどのような縁で兼次と結婚したのか。その経緯はつまごらかではないが、つたは「もと吉原の芸者であったという」 ( 1967年9月 菊田義孝『木靴』「なつかしさと強さと」) 、「吉原の芸者」 ( 1969年8月 斎藤末弘『探求』「孤独な作家―小山清の死」 ) 。引用は 『太宰治と椎名麟三』 ( 1973年4月 緑地社 ) さらには「吉原の芸者で竹本摂津大掾の弟子であった」 ( 1979年9月 林義美編『空知の文学 ( 上 ) 』みやま書房 ) とも言われる。また、菊田は後には「小山家に女中として住み込んでいるうちに、小山の祖父から気に入られ、盲目の嗣子兼次の嫁に迎えられた」 ( 1982年10月『早稲田文学』「小山清論」序説 ) と言っている。