まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

評伝 小山清 2 両親 16 父兼次

 兼次 ( 1885年 ( 明治18年 ) 生まれ ) は越喜太夫の名を持つ義太夫語りで、大阪の文楽座に出演していた。2歳の時に、脳膜炎で失明した兼次は、13~4歳の頃、大阪へ義太夫の修行に行った。初め五世野沢吉兵衛の手ほどきを受けた後、越路太夫 ( のちの摂津大掾 ) に弟子入りした。

 東京と大阪の間を行き来した兼次には、祖父の姉に当たる女性が附き添っていた。1912年 ( 大正1年 ) の最後の大阪行きには、生まれたばかりの小山も連れられて行った。小山は両親と伴に御霊神社近くの家に、1915年 ( 大正4年 ) の帰京まで暮らした。大阪の家には、小山ら三人の外に、祖父の姉と子守の女性もいた。兄の新は祖父母と東京の家に残った。

 越路太夫は五世竹本義太夫の門弟で、初め南部太夫と名乗った後、二世越路太夫、六世春太夫を継いだ。1903年 ( 明治36年 ) 受名して摂津大掾藤原愛純と名乗った。美声で艶物を得意とし、高い評価を受けていた。兼次は、越喜太夫という名前を貰っているように、越路太夫から評價されていた。水谷不倒の『摂津大掾』 ( 博文館、1904年2月 ) には越喜太夫が摂津大掾の直産の弟子10人の中に入っていたことが記されている。

 摂津大掾は私の父を可愛がり、私も家に連れてゆかれて、摂津大掾の膝に抱かれて、摂津大掾がてづからむしってくれた魚を食べたことがあるさうである。私の幼い記憶には、そのときの膝の上の魚の白身の印象が眼に残つてゐた。
「思ひ出」より

 摂津大掾は盲目でありながらも、高い技術を習得した兼次を評価し、「可愛が」っていたのだろう。おそらく兼次が文楽座を退くことを残念がったと思われる。東京に戻った兼次は自宅で義太夫を教えるようになった。

 小山は「僕の父は滅法善い人」「やさしい、善い心の人」 ( 1948年11月『東北文学』「わが師への書」 ) と記す。しかし、「陰気な黙りがち」「ほんとに黙ってゐる人」 ( 同前 ) でもあり、蔵の二階の稽古場にいつも「ひとりとぢ籠つてゐた」 ( 「家」 ) のである。また、盲目のために「おそらく父は自分の意志で事を極めたことはなかつたに違ひない。一家の主としても父親としても、自分から配慮するといふことがなく、常に人から配慮される側の人であつた」 (「桜林」) と小山は述べる。兼次が何事にも受け身であったと小山の目には映っていた。

 ところが、ときには兼次は別の一面も見せた。子供時代、小山は夜明け頃になると、兼次の寝床に入って、お話をねだった。すると、兼次は小山の坊主頭を抱いて寄席で聞いた落語や講談の話をしてくれた。小山の記憶には「話振りが、なかなかユウモラスな、上手なものとして」 (「わが師への書」) 残っている。また、次のようにも記す。

父はまた自ら畳の上に仰向けになつて、揃へた足の裏を子供の僕の帯のへんにあて、僕に手足を動かさせて亀の子の真似をさせたりしました。また、自分の背に僕を仰向けに背負って「千手観音」だと云つて戯れたりしました。子供の僕は父の背で「千手観音、拝んでおくれ。」などと云つたりしました。僕はこの遊びが好きで、よく父にせがんだものでしたが。もし父が並の體であつたなら、父のかういふ為人はもつと外部にあらはれて、広く、暖く、家庭を包んだことでせう。
 ( 同前 )

 兼次は「巧まない飄逸なところ」 (「桜林」) を内面に持っていたのである。妹の直子に対して「玩具の三味線などを手にして、おどけて見せる」 (「わが師への書」) こともあった。しかし、それが「もっと外部にあらはれて、広く、暖く、家庭を含」まないことを残念がる。このことは小山の家庭が暖かさに欠けていたことを示唆していよう。

 思春期の小山は父の自分に対する態度が「頑な無関心な態度でゐて、うち解けてくれることもすくない」 ( 同前 ) と感じ、「あまり僕を好きではないらしい」 ( 同前 ) とも思うのである。また「父親といふものは息子に対してどんな気持ちを持つてゐるのでせう? 世間の年頃の息子を持つた父親の心といふものはどんなものなのでせいね」 ( 同前 ) と父の気持ちを知りたいと願う。その一方、「僕が父にもつと親しみを抱いてゐたら、おそらくこんなことは思ひますまい」 ( 同前 ) と自分自身の「親しみ」の欠如を省みる。父は「やさしい、善い心の人」だとわかっていても、小山と父の間には、齟齬をきたすような感情があったと思われる。

 兼次は義太夫の師匠として収入があったわけだが、前に述べたように小山家の生活費は家賃収入が主だったと思われる。