まるさんの資料置場

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評伝 小山清 1 新吉原 15 兼東楼

 加禰が新吉原で貸座敷業を営んだのは、対岸で近かったということだけではないだろう。新吉原の芸者・春の家花寿の「夜一夜、騒げるだけ、騒いだ挙句、夜が明けると又、さア是から八百松へ呑み直しに行かうなんて、有仰る方も出て来ます。然云ふ時は又私達も寝ずにお伴をしなくちやなりません」「私達のまだ吉原に居た時分は、お客様が口説く時は ( 略 ) 主に八百松だとか、植半に定まつて居ました」 ( 「仲の町気質 」『新小説』1912年5月 ) という回想のように、両者のなじみが深かったことも関わろう。

 加禰はいつごろ新吉原に移り、管見によれば『新吉原細見』( 以下『細見』) に兼東楼の名が初めて見られるのは、1904年 ( 明治37年 ) である。それには「兼東楼 三十一番地 小山かね」とある。以後、兼東楼の名は1910年 ( 明治43年 ) まで見ることができる。 ( 但し1905年 ( 明治38年 ) 、1906年 ( 明治39年 ) 、1907年 ( 明治40年 ) 、1909年 ( 明治42年 ) は未見 ) 。楼主の名は1908年 ( 明治41年 ) が「小山かね」、1910年が「小山兼次」である。ここで気になることがある。1903年 ( 明治36年 ) の『細見』の京町二丁目の所には「若竹楼 三拾壱番地小山あぐり」との記述がある。小山あぐりとは加禰の姪、つまり兼次の母であり、小山の祖母に当たる人物である。私の調査によれば、『細見』において「若竹楼 小山あぐり」との記載は1899年 ( 明治32年 ) から見られる ( 但し1897年 ( 明治30年 ) 、1898年 ( 明治31年 ) 、1900年 ( 明治33年 ) は未見 ) 。とすれば、あぐりと兼次の母子は若竹楼で暮らしていたことになろう。千束町生まれの劇作家、舞踏作家の木村富子の回想もこのことを裏付けているとみられる。木村は「家は吉原の廓近く、叔母にあたる人が京町二丁目で中米楼といふ大店を経営してゐた」( 木村富子『浅草富士』双雅房、1943年7月 ) 。木村は兼次のことを「義太夫畑には余ほど御縁があつたかして、先の越路さんのお弟子の越喜太夫が、若竹楼の子息で、中米楼の左隣。あから顔のたくましい朝太夫が同じく右隣での角尾張楼で、どちらも私の家から庭つゞきの塀越しに、常に其の稽古振りを聞き慣れてゐた」 ( 同前 ) と記すのであり、「先の越路さんのお弟子の越喜太夫が、若竹楼の子息」とは、兼次のことだからである。

 これらのことから新吉原に移り、貸座敷業を営み、兼東楼と名付けたとの加禰の墓誌の記述に符言すれば、加禰が新吉原で兼東楼の経営を開始したのが1904年である。おそらく若竹楼を買収するような形だったのではないか。そして、兼東楼への改名はあぐりを養女に迎え、兼次を跡取りとしたためと思われる。

 ところで、『細見』には若竹楼の名が見られるのは、1888年 ( 明治21年 ) である。その楼主の名は1888年から1890年 ( 明治23年 ) までは「高木登里」 ( 「高木とり」との記述もある ) と記され、1891年 ( 明治24年 ) から1896年 ( 明治29年 ) は「高木新之助」とある ( 但し1897年、1898年は未見。 ) 「高木登里」「高木新之助」とあぐりとはどのような関係なのだろうか。「高木新之助」はあぐりの実質上の夫であり、「思ひ出」 ( 『明窓』1954年6月 ) 、「桜林」に登場する祖父に当たる人物ではないだろうか。このことは後述する。