まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

評伝 小山清 1 新吉原 13 八百松楼

 

加禰の墓誌にある枕橋のほとりの八百松楼とは向島の水神 ( 隅田川神社 ) に隣接した割烹・八百松楼の支店である。前者は枕橋の八百松、後者は水神の八百松と呼ばれていた。水神の八百松は小山松五郎によって開かれた。松五郎は幼少から浅草の八百善で修行し、独立後は木母寺の傍に吾妻屋を開き、やがて水神の隣に移転した。その時、八百善の号を貰い受け、八百松と称した。

 松五郎はやがて1870年 ( 明治3年 ) に枕橋に八百松を開いた。名物は焼き鳥で、鉱泉も湧き、当時としては珍しく電話もあった。加禰はその経営を大いに助けたわけである。建物は隅田川に面し、当時は平屋であったが、二階が増築された。場所は水戸藩の下屋敷 ( 現隅田公園 ) の目の前でもあり、もとは水戸藩の御船蔵であったが、八百松は水戸藩に贔屓にされ、勝海舟、福地桜痴なども常連で、海舟は円朝を連れて訪れたという。

 海舟の『氷川清話』 ( 講談社学術文庫版、2000年12月 ) には八百松への言及がある。そこには「八百松の婆も非常な遣り手」と加禰は称される。また、「新門の辰、薬缶の八、幇間の君太夫、八百松の松、松源の婆、かういふ連中はおれの一番の友達になつた」と「八百松の松」つまり松五郎との親密さが述べられ、「八百松の松などはえらいものであった。たびたびおれの家へも来たが、いくら高貴な人が大勢居る中でも平気なもので、隣にはどんな人が座って居るか、一向気にも留めふりで、話をして居る。松、あぐらでもおかきといふと、へい、御免なさいといふ風で、上を向いて煙草でも吹かして居つたよ」とその平常心も賞賛される。八百松は「おれの顔も一時は売れたもので、ここの料理屋、あすこのお茶屋と始終出入りをした」という海舟のなじみの一軒だった。

 水神、枕橋の八百松は奥の植半、中の植半とともに四天王と称され、向島の有名料亭であった。その名は近代文学にも見られる。例えば、水神の八百松は坪内逍遥の『当世書生気質』 ( 晩青堂、1885年6月~1886年1月 ) 、小山内薫の『大川端』 ( 籾山書店、1913年1月 ) などに登場する。前者においては、「第八回」の舞台となり、後者においては八百松で小川正夫がせつ子と結ばれる。枕橋の八百松は「枕橋を渡ると右手は、徳川さんの邸、左手には川へ突き出るようにして八百松があった。石畳のいつも水に濡れている門の内には、八百松と墨黒々に書いた出前仕出のかつぎ籠が積んであって、朴歯をつっかけた男衆が忙しそうに立ち働いているのがみえる。二階は広そうだ。同じようなてすりの窓障子がぐるりと川の上までまわっている」 ( 佐多稲子『私の東京地図』新日本文学会、1949年3月 ) と描かれている。枕橋の八百松は関東大震災で焼け落ち、店をたたんだが、水神の八百松は戦後も営業していた。しかし、それもいまはなく、墨堤通り沿いの常夜灯が八百松を偲ぶよすがである。これは1871年 ( 明治4年 ) に牛島神社の氏子によって奉納されたもので、料亭29軒、個人 50名以上の名が刻まれている。その中に「水神 八百松」の名前が見られる。