まるさんの資料置場

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評伝 小山清 1 新吉原 10 誕生

 

小山清は1911(明治44年) 10月4日、父兼次、母つたの次男として新吉原 ( 東京市浅草区千束町2-425 ) に生まれた。兄妹は、兄の新 (  後に弟・辰、妹・直子 ) がおり、祖父母も健在だった。

私は浅草の新吉原で生れた。生家は廓のはづれの俗に水道尻といふ処に在つた。大門から仲の町を一直線に水道尻に抜けて検査場 ( 吉原病院 ) につきあたると、左がはに弁財天を祀つた池のある公園がある。土地の人は花園と呼んでゐるが、その公園の際に私の家は在つた。新吉原花園、そんな所書で私の家に音信のあつたのを覚えてゐる。
1971年7月『文学界』「桜林」より

 吉原遊郭は中央の仲之町通り ( 仲の町 ) をはさんで、左右に広がった長方形を形作り、その周囲はお歯黒どぶと呼ばれた下水で囲まれていた。そして仲之町通りを縦とするて、横に三つの道が通り、それぞれ名前が付いていた。大門からみて、一番手前の右側の通りが江戸町一丁目、左側が江戸町二丁目、次の右側が揚屋町、左側が角町、さらにその次の右側が京町一丁目、左側が京町二丁目である。

その中央の仲之町通りの突き当りを水道尻と言い、そこを抜けると吉原病院 ( 検査場 ) がある。検査場の左側に、弁財天をまつった、約200坪の弁天池 ( 花園池 ) のある公園 ( 吉原公園 ) があり、小山の家は「その公園の際」にあった。「私の家はちやうど桜林の入口のところにあつたので、二階の窓から上野の山や浅草公園の十二階が見えた」 ( 桜林 ) という。

 新吉原の地は江戸時代初めまで多くの池が点在する湿地帯だった。1657年、幕府の命令により、湿地の一部が埋め立てられ、日本橋の吉原遊郭が移された。造成の際、残った池のほとりに、弁財天が祀られ、楼主たちの信仰を集めた。それが吉原公園であるが、地元からは「花園」と言われ、子供たちは「桜林」と呼んだ。「桜林」と呼ばれたのは、春、夜桜の時期に仲之町通りを移し替えるため、多くの桜の木が植えられたからである。

「子供の私たちには其処をまた「桜林」と呼び馴染んで、自分たちの領分のやうに心得てゐた」「私たちのチルドレン・コウナア」 ( 同前 ) であった。

草深くて、さゝやかながら私たちの町つ子の渇を癒すに足るだけの「自然」がそこにはあつた。池の面も南京裳がいつぱい浮かんでゐて、ちよつと雨が降ればすぐ水が溢れた。私の子供の時分にも小さい出水は毎年あつた。私自身溺れかけたこともあり、また休暇に遊びに来た兵隊さんが誤つて池に堕ち遂に帽子を発見出来なかつたといふ話もある。夏ともなれば私たちは草いきれを嗅いでとんぼ採りに寧日がなかつた。
( 同前 ) より

  1959年 ( 昭和34年 ) 、吉原電話局建設によって池は埋め立てられ、現在では「花園」「桜林」の面影は残っていない。しかし吉原弁財天だけは今も祀られ、この境内には二畳ほどの小さな池がある。弁財天の境内には、山路閑古の撰による新吉原の沿革を記した「花吉原名残碑」、吉原起源の庄司甚右衛門の碑、楼主の建てた水子供養の碑などが建てられ、祠のそばの築山には大きな観音像が立っている。これは関東大震災における娼妓の犠牲の慰霊のため、1926年 ( 大正15・昭和1年 ) に建てられた。大震災の時に、この池に逃げ込み、およそ490人の死者を数えたのだった。

 ところで、小山は生家について「家」( 1954年10月『新潮』) で詳述している。それによれば、二階建てで蔵もあった。一階には茶の間、座敷、八畳間、六畳間、四畳半、三畳の女中部屋など数部屋があった。

湯殿もあり、台所には「料理屋や魚屋にあるやうな大きな冷蔵庫」 ( 「家 」) まであった。庭もあり、中央には小さいながら池もあった。その暮らしぶりは裕福であったとみてよい。小山の家は貸家を持っており、家計はそこからの収入で主に賄われていたと思われる。