まるさんの資料置場

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岸清一君と偉一君 著:下村海南

「本卦かへり」  四條書房 昭和10年3月20日刊

 著:下村海南

體育會館の設立

 故岸清一博士の遺志をついて令継偉一君は、體育會館の為に百萬圓を提出されるといふ、近頃快心極まるニュースである。

 

 偉一君から親しく耳にせるところも、委員會にて郷隆君より聞くところも、符節を合しているが、現代に於いて發明の奬?とか育英資金とか各種社會事業の施設等には、過去に現在に将來に基金の寄附せられる機會はかなり惠まれてる。獨り體育會館に至りては恐くは此機會を措いて他に見出すことが出來ないであらう。又基金として積み立てられたものはいつか費ひ込まれてしまう、又その利殖により高下があり、基金そのものも近頃の變遷を見ては、奬來あまり頼りにならなくなる。従つて體育會館といふ土地なり建物になつてからが、しかもそれがよく活用されて収支が相償はれる。さらに相當の餘剰を殘す事になる、よりてスポーツの為めの助成金ともなれば、そこに此義學の眞價が充分に體得され發揮されるといふのである。

 

 従つて會館の場ても、場處の選定が何よりの問題となる、假りに無償の土地を提供されても、場末の為め觀衆の足場の惡いところでは問題にならない。よし土地の値段が高くとも一がよく觀衆の足をひくところならば、繁昌もする活用される。更に又地坪は相當廣きを要する、スタンドの數多くして一人當りの入場料は安くても數でこなしてゆく事が、収支の上より又スポーツ宣傳の上より有利である。この理解の下に四季を通じ風雨の別なく、晝夜の境なく、大東京の中心地帯に體育會館が出來てその活動をつゞけたならば、その効果はまさに百パーセントであらう。

 

 一方に運動精神の高揚をはかると共に、一方に之が活用の全能力をあげ、之が維持のみならず廣くスポーツの資金を提供しうる理想を標的として、今關係者諸君は馬力をかけてゐる。

 

 故岸清一君は長い間かなり、イナ大に面倒臭い體育會館の主脳者として、少なからぬ労力と時と金とを費した。晩年の辯護士事務所は全く赤字を出してゐた、あとに残された資産にも限りがある。百萬圓の金を提供するといふ事はかなり思ひ切つた奉仕である。その一部の資金提供に多少の條件をつけるといふ話のあるにも僕には理解できる。今更故人の體育界に佛はれし犠牲の少なからざりしを思ひ、更に後嗣その人を得て、其の徳を長しへに、より大に高く傳へある事を衷心より感謝し、かつ勸喜する。

 

辯護士と體育會長

 それにつけても思ひ出す事は、この前に僕が岸博士逝去の折に、故人を悼む一文を東京朝日新聞紙上に筆にした事である。

 

 五六の書信は故人を禮賛して僕に謝意を表したのであつたが、その外に故人を罵倒し又僕を非難したはがきが一本舞ひ込んだ。それは此種の投書によくある無名ものである。賣名とかインチキとかあらゆる不愉快な文字をならべて故人を攻撃してあつたが、僕は比律實へ出かけた前後の事情も多少耳にしてるので、多數の中には故人にふくむものもあり、又かなり故人を誤解してるものも少なくないと思つてゐた。

 

 その直後の事である。體育會館のあるより合の席上で、この話をある友人に漏らしたところ、その友人より學生の中には、岸君の體育協會の為め盡力して外遊までするのは、辯護士商賣の宣傳の為めなりとまことしやかに思ひ、又口にしてゐる位だからなと聞かされて、實全く唖然とした事であつた。

 

 吾々の社會生活には少くとも醫師と辯護士には、其職務に堪能にして熱心であり忠實であることを何よりの條件とする。診斷によりては命を棒にふるかふらぬかの分れ目となる。訴訟のさばきによりては少なからふ金額を取れるか取られるかといふ瀬戸際にぶつかるのである。そんな呑気な宣傳や賣名により浮々と、ソレヂアあの人に頼みませうなどゝはオクビニにも出ない話である。宣傳は宣傳でも逆宣傳になる、岸博士は體育に熱中するため、どれだけ本職の邪魔をしたか損失をうけたか、とても計り知れないのであり。

 

 よく醫師や辯護士などが、府縣會市會の議員などになる、さらに衆議院議員になる。その他本職とかけはなれて會社や事業に首を突つ込み出す、そうすると患者も依頼者も當然足が遠くなるのである。そんな本職以外に浮気してかけ廻つてる人には命をあづけられないのである、訴訟は頼めないのである。醫師は澤山の患者を預つてる、たとひ一日とて旅に出かけられない筈である。訴訟もみな數月數年にわたるを例とする、忙しい連中は東京大阪あたりの法廷を毛抜合はせにかけ廻ってる、一週間一と月と宅は明けられないのである。

 

 岸博士が欧米に出かけた、それは國際司法裁判所へ出廷するのだ、萬國司法會議とかなんとかに列席するのだといふなら、まだ聞えてる。それが運動會に出席するのだから、商賣不繁昌策としては持つてこいである。しかも自辯で少なからぬ金を吐き出す、それはマアよいとして、為めにに往復三月四月の長きに亘り、本國を留守にして仕事に穴をあけるといふ事は、岸君の體育界に於ける活動が甚だしいほど、商賣は不繁昌なのである。

 

 それをいかに世間を知らなさ過ぎるとはいへ、辯護士商賣の宣傳に體育協會の會長を買つて出てゐるやうに云はれてると聞いては、開いた口が塞がらないのである。

 

 人間でなくて七癖といふ、岸君はかなり癖も多く又強かつた。そこに岸君の個性の閃きがあり、そこに岸君の長所なり短所が現はれてゐたと思ふ。僕は岸君逝きて今更に體育界にその人の乏しきを痛感しつゝある、あんな割の合はない仕事を引き受ける篤志家は、有中りやうが無いはずである。

 

 岸君としては此の前にも筆にした事だが、ロサンゼルスの大會に臨みし事、さらに至尊の御前に伺候して大會につき具上せる事、それが何よりの心の世の足らひであつたと思ふ。更に後嗣その人を得て君の遺志が體育會館として長く記念とする事になつたのは、誠に故人の為め又我國スポーツ界の為め此上もない喜びであらねばならぬ。

 

(九、十八、茗渓、オリムピツク)

 

 偉一君が一周忌に知人を東京會館に招待した、席上主人のあいさつ次で、若槻禮次郎、原嘉道、嘉納治五郎諸氏のスピーチがあり、次で僕が指名された。話故人のスポーツによる辯護士不繁昌策に及ぶや、僕の席の近かく猛烈なら拍手が起つた、それは故人と尤も長く辯護士として親友たりし法曹界の元老原嘉道翁であつた。