まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

海 「泉鏡花」 著:里見弴

 

 ぼくが少しのこだはりもなく、面と向かつて「先生」と呼べるのはたつた一人、泉鏡花だけです。夏目漱石のことを、「夏目先生」だの「漱石先生」だのと言つた覚えはない。だけど、今日は、だれもかれも公人扱ひとして、尊称や敬語をいつさい省略させてもらはう。

 

 泉鏡花との初対面は、明治四十三年『白樺』から、オーギュスト・ロダンに七十歳の誕生祝ひの手紙を書き、別に有島生馬がフランス語で祝ひ物として北斎や広重の繪双紙を送つてあげた。

それは改めて買ひ集めたのでなく、志賀 ( 直哉 ) たちが前からもつてゐたのに、いくらか買ひたしたもので、当時としてもたいした金高ではなかつたらう。ところが、そのお返しにロダンからは作品を三つも送つてよこしたんだ。しかも「マダム・ロダンの胸像」「影」「ごろつきの首」という豪華ささ。

 

『白樺』は明治四十三年四月の創刊で、その十一月十四日、すわはちロダンの誕生日に「ロダン号」といふ二百ページからの特別号を出した。そのお返しが届いて来たのはたぶん翌年だつたらうが、すぐ三つの彫刻と前からみんなが買ひ集めてゐた西洋名がの複製、―――油絵の号数でいへば、十五号とか二十号大の写真版だね、それを何十枚か一緒に展示して、その真ん中のいはば「目玉商品」然とロダンの作品を並べてさ、あつちこつちの会場で何度も展覧したんだが、たしか内幸町にまだ木造の粗末な二階建ての国会議事堂があつて、そのうしろ側のもつと粗末な議員会館の中に広い部屋があり、議会の開催中でなければ安く借りられたので、そこでもやつたが、たぶんその時だつたと思ふ、『白樺』の同人たちは毎日誰かしらそこに詰めて、別に用事もないから、なんだかんだ雑談してゐたもんさ。すると或る日のこと、だれかが「泉鏡花が来た!」つて駆け込んできたわけだね、そばに寄つちや悪いからつて、みんな遠巻きにして泉鏡花が歩いて行くのを見てゐるわけだな。さうしたら、ゴッホのペン画の前で、―――麦畑がずうつと広がつて、遠くの果てに教会かなんかのとんがつた屋根があつて、雨が降てゐる。その雨を日本画風に線で描いたのは、ちよつと珍しいんだけど、なんと思つたかその前で泉鏡花の足がとまつちまつた。

そしたら、一番勇気があつた志賀がそばに行つて「泉さんでせう、よく来て下さつた」といふやうな挨拶をした。続いて武者 ( 武者小路実篤 ) も行つたりして、だんだん鏡花の周りを取り囲んでね。そして誰かが「これが一番お気に入られたんですか」つて聞いてゐたよ。その、雨の降つた絵についてなんと答へたか、それは覚えてゐないがね…。

 

 当時ぼくがまだ部屋住みでゐた有島家と、歩数にして二十歩か三十歩ぐらゐの近所に泉鏡花が住んでゐた。だから、近所を散歩してゐる姿はちよくちよく見てゐたし、顔は雑誌や写真でも見知つてゐるんだが、しかしとても偉い大家だと思つてゐるから、ヅカヅカ伺つて、自分はかういふ者ですなんてまねは思ひもよらない。だけど『白樺』は読んでもらひたいんだな。それで、うつの庭掃除なんかする爺やに毎号届けさせてたから、読む読まないは別として『白樺』は見てるはずなんだ。さういふ縁故から、展覧会に来てくれたんじやないかと思つたがね。で、まあそんなわけで顔を合わせて自己紹介しちやつたから、もうしめたもんだと思つてね、その後間もなく泉邸をお訪ねすることができた。僕は二十四歳かな。

 

 鏡花の家といへば、近所の友だちで、散歩といふとしよつちゆう一緒に歩いてゐた『白樺』の仲間の三浦直介が、ふざけた歌みたいなものを作るのがうまくてね、夜何時になつても大抵灯りがついてゐる泉家の二階やぼくの部屋を見あげて、「里見弴、泉鏡花も寝たりけむ下六番地ただ秋の風」とやつた。泉家では、寒い時分は雨戸を閉めてたかもしれないが、大抵二階の雨戸を閉めずにあつてね、ものを書く机が廊下に近い障子際に据えてあるんだらう、スタンドランプの緑色のシェードで、ぼうつと障子紙が染まつてゐた。ぼくらはそれを往来から見上げて、「ああ、まだ書いてる書いてる」なんてね…。

 

 泉鏡花がそこに越してくる前は、長唄のお師匠さんがゐてね、お弟子が出入りして、三味線の音が絶えないようなうちだつたんだよ。そいつが越して行つたあとに泉鏡花が越して来るといふうわさは聞いてたが、それまでゐた土手三番町、―――市ヶ谷見附の坂をちよつと上がりかけて、右に曲がつた横町だが、そこの前もちよくちよく通つてゐた。あとで聞いた話だが、今度のうちは家賃はたしか四円八十銭、それがだんだん上がつて、―――あそこに住んでゐた何十年かの間にはかなり上がつたらう。

 

 明治時代の小説家なんて、そりやもう質素なもんでね、硯友社の親分 ( 尾﨑紅葉 ) だつて死ぬまで横寺町の貸家だし、夏目漱石だつてさうだ。自分の家を持つてゐたのは、森鴎外とか、坪内逍遥くらゐのもんだつたらうな。あとは一人のこらず借家住居さ。文士なんて…今とは大違ひだな。

 

 

 泉鏡花の人となりかい? …さうだな。人間だれだつて、さう一面的なもんぢないよ、いろんな面を持つてるさ。だから、一言でもつて、これを言ひつくすなんてわけにやあいかないけれど、まあ、だれにも多少とも地方色つてものがある。今後ともだんだん交通が便利になつたりしてさういふ色も薄れはするだらうけど…。それとは反対に、この頃テレビの連続ドラマつてやつは、やたらと方言を使つて、何を言つてるんだかわけがわからないくらゐだけど、実情はあれほどではあるまいな。前には、地方語であると同時に、人相にも地方的なものが多かつたね。

鏡花も、一見して北国人だよ。金沢から十八歳かで上京して来てからは、―――硯友社つてのはいやに江戸つ子がつてる寄合ひだからね、地方語ぐらゐはすぐ直つちやつたらうけど、顔つきにはやつぱり北陸的なものが残つてたな。徳田 ( 秋声 ) さんとはあまり似てないけれども、室生犀星とは共通点があるよ。喋り言葉や文章はテキパキした標準語、―――どころか、時にはベランメエ調子になることだつてあつたしね、自分で使はないまでも、書いたものにはさういふやつが出てくらあね。ところが、ふだんの言語、動作なんか、大変丁寧でね、ぼくらにたつて、「里見」とか「弴」とか呼び捨てたことはない。必ず「弴さん」とか、水上龍太郎なら「龍さん」とかね、久保田だけは「万ちゃん」だつたな。そのくせ久保田の細君は大変なお気に入りで、「お京さん」だつたよ。さういふふうに、物言ひだつて実に柔らかくて丁寧だつたんだ。だけど、一面には、われわれにはなかなか見せないやうな強いところもあつたんだね。これは以前にも書いたから、知つてる人もあると思ふけど、徳田さんを殴つた話なんて、それはちよつと凄いものね。

 

 その話も詳しくさせられるのかい? …厄介だな。…改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細かい相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それは泉に話させなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖の香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛けあんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。

 

 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買ってあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになったがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃えてあったな。その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾ってあり、毎朝、起き抜けにそれに向かって礼拝するさうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらっても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。

 

 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を掘りぬいた「胴丸」ってやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やっぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だった池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とのすぢ向かひの有島家に住んでたこともあったしね。

 

 さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちら…ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか…。紅葉が三十六歳の若死だったといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片っ端から食っちゃったからな」とかなんとか言ったらしいんだな。それはうそじゃなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすっぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいった胴丸火鉢がひとっ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのっかってパッパッパッと殴ったんだとさ。その素早いことと言ったら…。

「泉さんといふ人は手が早いですなあ」って、山本がほとほと感心してゐたがね、どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割ってはひって引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあった車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり…。その時分、「水際の家」っていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だったかの待合に連れて行ったんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だって二十分か三十分はかかるよ。その間ずっと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかったんだらうし、びっくりもしたんだらう、可笑しいけど、…子供時分からのほんとの友達って、こんなもんぢやないだらうかね。

 

 あとになって、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があって、「どうかな」って気もしたんだけど、お客様といて「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔ったやうなふりをして寢ちまってさ、…よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だって、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰っちゃう、といふ不首尾でね。にも拘わらず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちゃったけど、なんとかもう一度機会をくってくれないか」ってね。実に素直な気持ちなんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やったって絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といったんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合わなかった。陽のカンカン照ってる往来のまんなかで、ぼくは秋声のどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。

 

 とにかく、あの二人は生まれつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢゃない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもってゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやっていた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になったといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐっと来たんだらうが、秋声流に、「またいっぱい食はされた」といった風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだって、どうしようもない、まあ、フェタルってやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

 

 大変な惚れ方で一緒になったんだし、妻女のすゞとははたの見る目にも仲が良かったね。すゞはもと神楽坂で桃太郎といふ名で芸者で出てゐた。横寺町と神楽坂は近くでもあるし、硯友社の同人はよく遊びに行ったんだらう。そのうち「湯島の白梅」になっちゃった。紅葉は「婦系図」の真砂町の酒井先生生きうつしのきびしい人で、絶対許さないんだね。当時、神楽坂下に家を持ってた鏡花は、書生、といふより、若い弟子を二人もおいてゐた。そこへ、こっそり桃太郎がやって来る。さうしたある日のこと、突然、神様の御降臨と相成って、弟子の一人があわてて裏口からをんなを逃がすなどの大騒動があった話は、その時の弟子なる寺木定芳が、「人・泉鏡花」とかいふ小冊子に書き残してゐるよ。

 

 潔癖症の話は、ほとんど伝説的でね、酔っ払ったあげくなんか、銀座あたりの小料理屋で、いかがはしいもんを食ったおぼえもあるが…。もうひとつの恐がりのほうは…例えば、天井からたうもろことの赤黒くなったやつがいくつもぶら下がってゐる、それが雷よけになるといふまじなひだとさ。そのくらゐ雷が怖いんだよ。犬が怖いったって、あれぢゃ、むしろ犬のはうに同情するよ。向かうに犬の姿が見えると、ステッキを隠すやうに背後に構へて凄むんだからね。

うっかりそばに寄ったら、パーンとやらうといふ構へだよ。すまして歩けば犬なんて吠えるものぢゃないといふのに聞かなかったね。それから伝染病を怖がることね。麹町区内ぢゃなくて、四谷とか麻布とか、どつか離れた所でコレラの患者が出たといふ新聞記事を見ると、本郷の待合ひの家に引越しちゃって、だれか留守番を頼んで、一週間以上も泊り込んでるんだ。

 志賀も一度行って将棋をさしてさうだが、志賀に言はせると「あわててね」といふんだけど、飛車と角とを逆に置いたんだとさ。

 

 志賀もずゐぶん泉鏡花が好きだったんだよ。おれが初等科の何年生ぐらゐの時から、疱瘡をやって、伝染しないやうに、一室に閉ぢ込められて退屈しきってゐた時、葉書でなんか面白い本を教へてくれって、志賀のとこにいってやったら、さつそく送ってくれたのか、本の名前を書いてよこしたのかは忘れたけど、よくあんなものをと思ふやうな、斉藤緑雨の随筆集で「みだれ箱」といふのと、もう一つ、なんとかいふ名前の小さな本だ。たまらなく面白かったのは、坪内逍遥の「桐一葉」で、淀気味が狂乱のていになる場面で、懐剣を振り回すところがあるんだよ。そこの床の浄瑠璃 ( ちょぼ ) の文句が、「切らむ切らむと狂乱の」とある。緑雨はその名文句をとつつかまへて、「けらんけらんと鶏卵の」といふのは「卵が転げていく姿なり」とひやかしてゐるんだよ。をかしくて、をかしくて…。鏡花では「照葉狂言」にうつつをぬかしたな。

 

 それから、谷崎 ( 潤一郎 ) だって鏡花には惚れてたね。大根河岸にあった鏡花のごひいきの「初音」といふ鳥料理屋へ、どっちが誘ってか、一緒に飲んだり食ったりしいゐると、鏡花はばい菌こはさに、ネギまでシワシワになっちゃふほど煮詰まらないと箸をつけないんだが、そのまに食ひしん坊の谷崎に、片端から片づけられちまふ。悲しむんだな、いつ見ても煮えたのがいってね。一策を案じて、鍋の一隅に鳥を寄せておいて「ここからこっちはあたしの領分だから、あなたはそっちがはを召し上がれ」ってね。さういふ仲だから、かなり遠慮のないつき合ひだよ。あんまりつき合ひの広いはうぢゃなかった鏡花としては、珍談の部だよ。

 

 初めの頃、ぼくは「泉さん」とばかり呼んでゐたが、ある時期から「先生」に変へた。といふのは、仕事に関しての助言を与へられるやうになったからなんだ。「先生」といふ言葉は、今でこそだれかれなしに使はれてゐるけど、明治時分から大正の初め頃までは、学校の教師と医者くらゐのものだったね。そのうち代議士をはじめとして、浪花節語りに至るまで、なんでも「社長」、かんでも「先生」になっちゃった。その、実際にものを教へてくれる人にかぎって「先生」と呼ばれた時分に、鏡花がこんな風に言ってくれたもんだ。「この間『中央公論』にお書きになったものの中で…」なんて、おもむろに説きおこして「かうかういふ文句がありましたがね、あれは、かうなすったらどうかと思ふんだけど、つまり、あの書き方ではかうなりますよ」って、いふ具合で、そりゃあ丁重なものなんだよ。教はったことは、ほんとに数へるほどしかないけれど、一番ひどく…いくぶん叱られる形で言はれたのは、ぼくが明治大学で教へてゐた頃、「月 水 金」といふ卒業論文や習作をまとめて印刷した雑誌の最後に「作文の先生」として、ぼくの批評がはひるわけだ。それに「君たち、こんなことで小説が書けると思ったら大間違ひだぞ」とかなんとか、とにかく最後に「ぞ」の字が入ってゐたんだ。その「月 水 金」をだれがどうして鏡花のところに持って行ったか、いつの間にかちゃんと読んでたんだな。しかも、しれが出て間もなくのこと、その話が出ると、「あなたのは、なんとかだ、と書いておいででしたね。あの場合の “ぞ” はあきらかに照れかくしですよ。どうしたあなたは学生に向かって照れなけれどならないんですか。なぜ “だ” でとめなかったんですか。 “ぞ” なんてみっともない」ときっぱりやっつけられた。

 

 それ以前にも、公園に大砲が飾ってある場面を書いたら、「あの大砲には夜露がおりいゐませんね」と来るし、待合の夏の座布団一枚にしたって「ひやりとしない」だからね。教へてくれる、といふより、考へさせられるんだよ。…いい勉強させていただいたよ。

 立場が違ふんだから当然の話だけど、自然主義の文学に対しては、無関心以上の、…まあ、嫌ひだったんだらうな。うまいともまづいとも、そんな批評めいた言葉も聞いたおぼえがない。

 

 西洋人の小説は、あんまり読んでないと思ふけれど、二葉亭の訳は大好きでね、「うまいなう原作はどうか知らないけれど、二葉亭の訳で読むと、ロシヤにはたくさんの名人がゐるやうだね」なんて…。ときには訳文の一部をおぼえたりしてゐた。ガルシンかだれかのもので、レンガ屋の職人が高い足場の上でなにかやってるんだ。そこへコーカサスへ旅行して帰って来たとかいふ友だちが通りかかって、「おーい、なんとか」って名を呼ぶ。すると、上からは、いきなり「どうだったア、女は、コーカサスの」といふ。そこを暗記してゐて、「あれは、原作どほりぢやありません。きっと『おーい、コーカサスの女はどうだった』とかう、ごく普通の順になってますよ。だけどそれぢゃあ足場の高みから下の往来まで声が落ちて行きませんよ」いまどき、こんなことをいふ「先生」がたった一人でもゐるかしら?

 

 鏡花が「冠弥左衛門」といふ処女作で初めて原稿料をもらった時は、金でなくって、醤油の五合瓶だったさうだよ。自分の書いたものに対して礼をもらへたのだから嬉しかったらうけれどね。出版社は春陽堂で、店主は和田篤太郎。まだいくぶんか旧幕時代の「お店と出入職人」といった空気だったらしいね。だから、花見だなんて呼び出されると、いやおうなしにくっついて行く。かういふ話を志賀にして聞かせたら、ひどく憤慨して、「ひでえもんだなあ」なんて…。まったくひでえ話がぴったりと背中にくっついてたんだね。その点、ぼくたちの頃には、ちゃんともう丁重な扱ひになってたね。

 

 原稿料の話をすれば、一番初めに、毎日新聞の劇評を小山内薫の妹の岡田八千代やなんかといっしょにやった時で、一枚五銭しきゃくれなかつたね。ぼくはむろんただと思ってたから、それだって嬉しかったがね。その次は、ちゃんとした小説だったけど、五十銭。『中央公論』に初めて頼まれた時が八十銭。瀧田樗陰からは同じ原稿料を二度ともらはなかったね。書くたんびに十銭なり二十銭なり上がってゐるんだよ。だからみるみるうちに高くなってね。

 

 いかに親しい間柄でも、ひとの稿料となるといっさい知らなかったし、自分のもしゃべらなかった。ぼくだけぢゃない、だれでもみんなさうだったんだが、やっぱり時代の相違かな。船橋 ( 聖一 ) なんか合ふたんびに「いくらもらってゐる?」うるさく聞くんだ。そのあげく、「ぼくは、たった三円しかもらってませんよ」「いいぢゃないか、三円、上等ぢゃないか」「いや、そんなことってない、あなたはいくら?」なんて来るたんびだったな。

 

 泉家の財政顧問をしてゐた水上龍太郎ぢゃあなくって、阿部章蔵なる実業家がやってた、その当人にきいた話だから、間違ひあるまいが、鏡花が死んだとき六万円あったといふんだね。思ったより多かったんで、ぼくらは驚いたな。一生小さな借家に住んで、贅沢ってほどのくらしもせずに過ごしたんだ…。

 

 維新時代の「欧化主義」ってやつだらうか、あの頃の人は大抵さうだが、鏡花にもなかなかハイカラな一面があってね、洋服こそ着なかったけど、いつもきまりの、黒の中折帽子にしたって、ボルサリーノとかいふイタリア製さ。シャボン、歯磨、売薬その他、なんでも舶来品でないとお気に召さないんだよ。昭和十四年の六万円は、今にするとどのくらゐにあたるのか、原稿料と脚本の上演料くらゐの収入源でよくためたもんだ。おまけに字引とかなんとか厚い本をパラパラやると、たまには、百円札がおっこちることがあった、と後家になってからのすゞがニコニコ顔で話したこともあったっけ。ああ、さうだ、形見に頂いた百科事典を今すぐふるってみるかな。

初稿:1977年3月 『海』刊