まるさんの資料置場

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古老がつづる 台東区の明治・大正・昭和から 「上野広小路」

上野広小路

斎藤清太郎 台東区上野3-21-10

御成道 ( おなりみち )、上野広小路

 これは大正4、5年から10年くらいまでの話になりますか。上野は御成道っていって、将軍が寛永寺にいらっしゃるんですが、それを大事にして、万世橋から上野にかけての御成道が中心で栄えました。それが上野広小路ですね。広小路は、火除け地として広げたもので、日本橋の室町にも広小路という名前がありましたが、それは早くになくなっちゃった。上野は広小路御成道中心で栄えたわけですね。

 

青石横町

 私も幼稚園に一年行って、それから黒門小学校へ上がりました。黒門はあの頃、下谷の花柳界が盛んで、いわゆる新橋とか赤坂とか葭町、下谷と、そういう料理屋や花柳界の方面のこどもたちがよって来て、ちょっと華やかな小学校でした。建物は木造で、今と同じ位置で、あすこから先年亡くなった最高裁の判事の入江という人が第二回の卒業とかで、この方も青石横町で生まれたんですが、ああいう下町の学校から判事になられて、いわゆる出色の方ですね。この方、晩年にたびたび学校にもみえて、昔話を段々にまとめていこうじゃないかというところで退官なさって、まもなく亡くなってしまい、昔話が聞けなくなりました。

 この青石横町ですが、今の昭和通りの御徒町中学校のところが、伊豫の殿様で加藤という大名屋敷でしたが、そこの正面に向かって、松坂屋の今の本館と新館の間の通りが当時は鍵の手になっていて、まっすぐじゃなかった。で、その松坂屋の裏から昭和通りまで出る途中を青石横町といったんです。青石横町っていうのは、昭和通りの角に、私の記憶では乾物屋だと思うんですが、その店の角に大きな一枚石の青石があり、それで青石横町という名前がついたというわけで、その石は今どこにあるかと思って、先だっても探したんですがわからないんですよ。人にいわせると西町の方の井上神社の付近に、その石がいってんじゃないかっていう方がありますけどね。それは大きな一枚石です。当時は国電がなくて、上野と秋葉原の間を貨物が一日、三、四階往復し、いなかにあるような踏切で、踏切番がいて遮断機を降ろしてました。当時は秋葉原駅は独立駅で、隅田川、神田川の水運で集荷したものを、上野駅へ貨車で運んでいたんです。御徒町駅前に、五、六人も入るといっぱいになる、狭い店でしたがポンチ軒というのがあり、やわらかくておいしいトンカツをたべさせました。ここなどは今のトンカツの初めにあたりますね。

 

伊豫紋、その他

 私は、明治42年、上野町の松坂屋寄りで生まれたんですが、その斜向かいに伊豫紋という、東京でも一、二の料亭だと私は思ってるんですが、それが今話した加藤様が江戸へいらっしゃる時にそれに付いて来て、きっと料理番だったんでしょう、あるいは家来だったか、その人がもんさんっていうんで、それで、伊豫のもん、伊豫紋という名前でやりましてね。我々、目の前にいても二度ぐらいしか行ってないですね。まあ当時こどもですから親に連れてってもらった、せいぜいそんなもんじゃなかったでしょうか。夕方になると下谷の花柳界からってことは、今の風月堂の裏、あの辺一帯が花柳界で、それが夕方の伊豫紋のお座敷がある時は、人力でもって、綺麗にお化粧したのがくるわけです。横山大観が非常に伊豫紋を愛好したそうですね。芸者を連れていったってこといってましたけど。とにかく、ちょっとじゃ入れない料理屋でした。料理場がそりゃ清潔で、台所ほはこどもですから、ちょこちょこのぞきにいったことがあるんです。御影石が敷いてあって、水がしょっ中流してあって、きれいな料理屋でした。敷地もかなり広く、今の松坂屋の駐車場がある一面が下谷同朋 ( どうほう ) 町で、当時同朋町ってのが、神田、下谷、湯島と三つあって、これは一つだったのが分散したんですかね、下谷の同朋町の伊豫紋で通ってました。それが青石横町の一画にありました。

 それから、それよりも昭和通り寄りの角に、山勢松韻 ( やませしょういん )っていうお琴の家元がいたんです。それで、朝からお琴のけいこでね。その家の前に、三尺ぐらいの流れがあって、それを渡って家の中に入るっていうような、そんなとこあったですね。そして、赤い糸ミミズが漂ってましてね。今は想像もできないです。そこに五色揚げ屋があって、そこはお稲荷さんをお祀りして信者を集めたりして、いつも夫婦とも白い着物着てまして、それでお客があると五色揚げを包みに出てくるんですよ。それともう一つ、天新っていって、それは伊豫紋と松坂屋とのちょうど中間で、床屋みたいな小さな店ですが、それが東京一の天ぷら屋だったですね。いわゆる六代目とか超一流の人でないと食べにこられない、そういう家でした。我々は目の前でも縁がなくて、天ぷらのあげ玉をもらうんですよ。それがうれしくてね。長田幹彦の小説の中に、そこのヤエちゃんていう娘が出てくるんです。面長な美人でした。伊豫紋にも一人娘でミヨコさんていう、その人なんかは今でいう紫の袴でね、おさげでピカピカ光った靴履いて学校へ通う。我々はこども心に前通るのを見てね、それから、親子で人力ででかけるのなんての、そうするとミヨコさんがお出かけだよ、なんて。で、これは因縁話になりますが、上野に揚出しって料理屋が画家の小絲源太郎さんの生れたとこですが、それと伊豫紋のおかみさん同士が姉妹かなんかで、それで晩年、小絲さんにお目にかかった時に伊豫紋の話が出て、そしたら、ミヨコさんが戦争未亡人になって大森にいるからって、住所まで教えてくれたんです。けどね、なかなかお尋ねしようと思っても勇気がいって、そうこうしているうちに亡くなられて、非常に残念なことをしました。

 

六阿弥陀

 松源や雁鍋という料理屋は、私のこどもの時分この辺にあったと聞きましたが、今のナガフジの並びあたりらしいですね。こどもの頃は、米久、ダルマ、甲子なんてのを覚えてます。今の京成聚楽ですが、あすこに五条天神社があって、神社の方はそう有名じゃなかったんですけど、それから、今のアブアブの所に六阿弥陀っていう阿弥陀様があって、これがもう大変な縁日で阿弥陀様や大きな舌を出したおエンマ様の像があって、そこはお堂の前に、金でできた平ぼったい棒がついてる。それでたたくんです。カンカンって。それがみんな並べてあるもんで、そこいっちゃたたくと、その音がとてもにがやすだったです。

 

摩利支天

 摩利支天も亥の日の縁日は大変でした。今の明正堂って本屋がある、あれからずっと三橋のナカフジの裏あたりまで縁日が出て、西田っていう糸屋の角あたりは、摩利支天へおまいりにいく人で、そりゃにぎやかなもんでした。

いろんな夜店も来て。豆をいってね、炭火でもって豆をいるわけです。そして、あったかいのに塩水をかけて、新聞なんかを三角に切った小さな袋に入れて、それを一銭とかいくらとかでね。当時ぶどう餅ってのがあったんです。あんこ玉の丸い、あれのもっと小さい、ぶどうと同じくらいの大きさのあんこのまわりにくずがくっついてるの。それを食ったりしましたね。それから摩利支天は花柳界の人のおまいりが多かったですね。今のように上野の広小路へ抜ける道はなかったんです。当時は仲通り一本だけだから、摩利支天の横へ曲がる道はありましたけどね。それで三尺くらいの地蔵様のかっこうをした仏様がいて、それに水をかけてね、束子でこするんですよ。それでわるいところをなおすっていうんですが、それを順番で待って、病気をなおしたい一心でね。摩利支天は、今はあんな鉄筋になっちゃって、神々しいという感じがないが、昔は、なんとなしにおまいりするといいような気がしたもんでした。

 三橋の小坂理髪店には、早稲田大学の高田早苗総長が馬車で通ってくるという話も聞きました。

 

揚出し、その他

 あの辺、待合は非常に多かったですね。今いう鳥鍋とか世界、これは料理屋ね。サンゼン、池に面した方が揚出しでした。揚出しは、朝四時か五時頃から始めるんです。それでお風呂に入れるって、それが名物でね。上野駅に朝着いた人や吉原帰りの人とかが利用しました。揚出しっていうそのものは、豆腐を揚げたような簡単な料理ですが、そればかりじゃなく他の物もできました。値段も安かった。

伊豫紋は震災後も、家は建ちましたが、揚出しの方は、あるいは震災でなくなったかもしれませんね。それと今の上野出張所のところ、あそこには無極亭、これは休み茶屋。料理でまともなものができるというのじゃなくて、ちょっと腰かけね。お茶を飲むっていうような。その隣りあたりに青陵亭。これはなかなかおつな料理を出すとこで、それから空也という、空也の最中っていってね、今、銀座にあとの方やってますが、とにかく上野では、空也の最中って、うさぎやよりも古いようでした。小判型の小さな最中ですけど、非常においしい最中で、これはもう上野の一つの名物だったですね。

 

広小路付近

 風月は、当時、蔵造りってますか、大きな家で、現在広小路の角から三井銀行のところまでで、三井銀行は松崎っていう油屋でした。当時なかなか大きなもんでね。油買に行くと、ぐいのみの大きいのぐらいに柄がついて、それで油計る。それから栗田園っていうお茶舗、風月堂、角が三河屋ってパン屋でしたがね。この四軒しかなかった。風月は表へ大きな紺の日除けが三枚ぐらい張ってあって、月に何回か朝七時頃までキンツバを割引して、竹の皮に包んで売ってくれました。震災後からフランス料理や洋菓子をやったんですよ。うさぎやは、河東碧梧桐 ( かわひがしへきごどう ) ですか、あの人の弟子かなんかで、なかなかそういう文士とのつき合いがあってね、書いたものなんかいっぱい置いてありましたが、主人は早く亡くなったです。

 今の黒門小学校の前の角にむぎとろがあり、法事のあとなどずい分利用した家でした。

 松坂屋は蔵造りの大きな建物でした。私の家は寛永寺出入りだったので、松坂屋ももちろんいろんな仕事があったわけで、その頃から、主に松坂屋を通じてやったんじゃないかと思うんです。

 忍川って川が流れてました。ちょうど、揚出しの前のところへ池の水が出てくるわけで、私たちは、そこだけドンドンって言ってましたがね。そこへ出て来て、それからずうっと、三橋っていいましたか、そこはすでに道になってましたね。橋はありませんでしたね。それで、今のアブアブの並びから、また水が表面に出ているわけです。そこに忍川っていう料理屋があって、今の朝日信用のとこですね。それと、その隣が大正館っていう映画館でした。これはね、尾上松之助専門の映画館で、こどもの時からそこへはよく通ったもんですよ。今の上野の出張所の並びの朝日生命のところがみやこ座っていう映画館でした。それは新派をやったんですよ。鈴本はね、今の亀井堂の隣にあって、二階屋でした。下には佃煮屋だとか自転車屋とか、何軒か家があり、二階へ上がりますと、もちろん畳でして、寄席は気楽なちょこっと入れるようなとこでしたね。丸万なんてのもありましたね。丸万って大阪料理なんですけどね。山下は古いんですよ。料理屋で天ぷら屋じゃなかった。それから大時計ってましてね、今の第一勧銀ですか、あそこが鈴木時計店っていったんです。その屋根の上に大きな時計があって、大時計、大時計っていってました。この横の通りを仲町といい、酒悦はそこにありました。

 松坂屋の前の広小路の通りは昔のままですね。ただ、昔の防御上ですか、まっすぐな道をつくんなかったから、その関係で万世橋から富士銀行のところまでがまっすぐで、あと曲がっちゃいましたからね。あればまっすぐに、上野公園から向こうの万世橋がひと目で見えたらいい通りじゃないですか。守田宝丹は古い薬屋です。宝丹っていう赤い粉は、暑気あたりにすごく効くって、こどもの時は飲まされました。薬では錦袋円というのも聞いてましたが、私らこどもの時はもうありません。ま、道明の糸屋、あれ、糸屋だったんです。それから、あそこで古いのは蓮玉庵で、今の伊豆栄の並びにありました。二階へ上がると池が一目で見えてね。赤いちゃんちゃんこを着たおばあさんがいて、上野の戦争の時は十八だっていってました。ちょこんとしたおばあさんがね、入口の脇に座ってて、で、おそばが、ま、せいろですね。当時、好きな人は、七、八枚食べたってよく聞きますね。おいしかったし、量も少なかったんだが、値段は普通のとこより高かったですね。二階へ上がって一杯飲みながら景色を見て…。

 上野ってところは文人墨客ってんですかね、それと寛永寺の坊さんね、それに関係した人が非常に多かったわけで、だいら食べ物でもおいしいものがあったし、凝った料理屋も多かった。勧工場 ( かんこうば ) で博品館が、今の広小路の方から行くと、角から四、五軒目にあって、間口が十間もあったかな。とにかくそこの建物は、いわゆる床屋みたいな店がずっと並んでいました。それで、化粧品屋だとかいろいろ並んでいるでしょ。入口から入っていくと、段々でいくらか登りになって、両側に店が出るんです。そういう建物ですね。当時珍しいですね。本屋というのはなく、露店で古本屋が並んでいました。露店は広小路の両側にずっと並んで毎晩出ててね。時によっちゃ、昼間から出てました。

 

縫紋師

 江戸時代から私の家は箔屋を承継してきたので、結局、見様見真似で私も家の職業を継ぎました。仕事は芝居の緞帳、当時、機会なんかないから、どんな大きものでも手でやる。歌舞伎座、新富座、市村座といったとこにぶら下げる緞帳だとか、それからお祭っていうと芸者の手古舞が出るんですが、時々大きな記念の行事がある時は、そういう花柳界の芸者が、新橋はこう、柳橋はこうと競走になるわけで、そういうのをやるわけですね。それから、浪花節のテーブル掛けだとか。大きな物は、松坂屋の中に演芸場があって、そこを借りてやるわけです。大震災までが忙しくて、あとは手ばっかりかかって利益がなかったですね。そして、結局縫紋になっちゃったわけです。

 

上野の花柳界

 今の鈴本の裏一面は待合があって、一杯飲んで、そうすると芸者が来ましてね。で、芸者でその方にむく芸者、あるいはなじみの芸者になるとOKになりますね。それで泊る。泊ってもそう変わらなかったですけども、だいたい十円から…。これは大正の末から昭和の初期にかけてですね。本当に、そういうことがおおっぴらにできたですからね。浅草の花柳界もそうでした。鈴本のうしろは、みんなもう廃業したり転業しちゃって、一、二軒やってますけど、こないでもあそこでセキナカっていううちが、割に大きな待合でしたが廃業しましたね。それとそういう芸者の置屋、東京じゃ、あまり置屋って言葉使わないんですが、ま、芸者屋って言ってましたがね。なにしろ若い娘を何人かおいて、夕方になると鏡台が、夏なんかずっと並んでて、おりにおしろいをつけてるなまめかしい姿が見えたもんですよ。非常に情緒あったですね。

 

市村座

 今の凸版印刷のところが、市村座って芝居小屋だったんです。前が流れになっていて竹やらいの棚があって、幟もかなり出てました。市村座の脇に、今の昭和通り寄りにお茶屋があって、そのお茶屋に通じて芝居を見る。相棒もそうですね。ああいう式になってる。当時、小林信子っていう帝劇の女優がいたんですが、それはそこの引手茶屋の娘でした。緞帳を張るために、こどもの頃から市村座へ連れてかれたんですが、ま、あそこは吉右衛門と菊五郎でやってたんですがね。それがある時凸版印刷が隣りに進出して来ましてね、工場もあん中にあったんです。そうすると、ちょうど正午になるとね、サイレンが鳴るんですよ。で、せっかくいいところをね、突然正午のサイレンが鳴ったりしてね、びっくりしたことがあるんですね。広小路をへて、春木町には本郷座って小屋があって、ここもはやりました。ここは新派の河合武雄なんて、ああいう連中が根拠地にしてましてね。「ルイズの狂死」っていう芝居が出たことがあるんですがね。今でも頭に残ってます。

 

 沢田正二郎

 もう一つ、大震災のことですが、浅草の公園劇場に沢田正二郎が出てまして、まだ旗揚げしてまもなくですね。私が紺の着物着ている時分だと思いますが、当時からよく使い歩きなんかさせられて、で、沢田正二郎が自分で考えたんでしょうね。柳に蛙って紋を作りましてね。背中は真正面向いている蛙で、袖につけるのは背中の紋に向かっている蛙なんです。そういう紋を、見本が欲しいので、楽屋にもらいにやらされるわけです。いったらね、沢田正二郎が番頭呼んで、ちょっと芝居見てってもらいなって、私を客席に案内してくれまして、国定忠治ですけど、見せてもらったことあるんです。こんなわけのわからぬ子どもにまで芝居見せてくれた、だから、今でも大した人だなと思ってます。