まるさんの資料置場

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食いしん坊 第6章 (お汁粉と芥川龍之介) 著:小島政二郎

 ラジオを有名な七尾怜子、あれの父親は水木京太という劇作家で、三田の学生のころからの親友の一人だった。

 これが甘党の両党使いで、辛党の水上龍太郎、久保田万太郎とも付き合えるし、甘党の私とも付き合えるという調法な男だった。それだけに今思うと、両方ともその醍醐味は分からなかったのではないかと思う。

 この水木が、いい若い者がお汁粉を食べに行くでもあるまいという考えから、酒らしく、

「おい、一杯飲みに行こう」

 と、私の顔を見れば誘ったものだ。その方が、根が雪国生まれの酒飲みの彼には、うれしく聞えたのだろう。

 

 それが口癖になって、私がお汁粉を飲みに行くと言ったのが久保田万太郎の耳留まって、

「お汁粉は飲むか食べるか」

 という動議が持ち出された。あるいは「都新聞」あたりの随筆に書かれたのかも知れない。要するに、江戸ッ子の小島が、そんな間違ったことを言っては困るというお叱りを受けた。

 すると、翌月の「文藝春秋」だったかに、芥川龍之介がもう一度それをなぞって、お汁粉は食べるというのが本当だという裏書をして、私は重ね重ね面目を失ったことがあった。

 芥川さんはお汁粉が好きで、よく一緒に食べに行った。私が誘って喜ばれたのは、上野の常盤、柳橋の大和、芥川さんに誘われて行ったのが、日本橋の梅村、浅草の松村。中でも、芥川さんは常盤が大のお気に入りで、

「あそこはお汁粉屋の会席だね」

そう言って、いろんな友達を連れて行かれたらしい。

 悔しいことに、大震災の時焼けて、それなり復活しなかった。上野公園の方から神田へ向かって行くと、松坂屋の方の側で、松坂屋とは横町を一つ隔てて、先隣と言ってもいいような位置にあった。電車通りではあったが、あすこは地形上道幅が広く、それに店構えがやや斜めにホンの少しばかり上野公園の方に向いていたせいか、座敷に通ると、静かだった。

 今のように乗物が激しくなかった時代のせいもあったろう。太い竹を二つに割って、それを透き間なく並べて、黒い棕櫚縄の結び目を見せた塀が高く往来に面していた。 その竹が、渋色に焼けていた。

 四角な柱が二本、その向かって右の柱に「しるこ、ときわ」とまずい字で書いた看板が掛かっている以外、何一つ人の目を引くようなものも出ていず、いつもシーンと静まり返っていた。

 今から思うと、よくあれで商いになったと思うくらい、お汁粉屋というよりもシモタヤ然としていた。 意気な建物とか、洒落たたたずまいとか、そんなところは微塵もなく、ただ手堅い普請であり、小さな庭の作りだったが、それでいて品があった。

 私はその頃からあまり甘い味が好きではなく、ごく普通の御膳汁粉専門だったが、芥川さんは白餡のドロッとした小倉汁粉が大好きで、御膳が十銭とすれば、小倉は二十五銭ぐらいした。 従って赤いお椀も、平ッたく開いて大きく、内容も御膳の二倍はあった。

 今でもそうだが、私はなんでも食べるのが早い。一膳食べて、お代わりをして、それを食べてしまっても、芥川さんはまだ小倉の一膳目をすすっている。前歯二本に、ホンの少しばかり透き間があり、その付け根にかすかな黒いシミのある歯をお餅に当てて静かに食べている。お椀の上にある目が、睫毛が長くて、黒い瞳が深々と湛えていて美しかった。

 「そう君のようにせっかちに食べたら、物の味が分からないだろう」

 箸を休めて、芥川さんが私を哀れむように、からかうように言った。

 「そんなことはありませんよ。 私は早く食べないとうまくない」

 そう言う私を肴に、芥川さんはゆうゆうとその甘ッたるい小倉をお代わりするのがお極まりだった。

 こう書くと、いかにも芥川さんは落ち着き払った人のように聞こえるかも知れないが、そうではない。まだ横須賀の海軍機関学校の教官だったころ、よくネクタイを締めるのを忘れて駅ほ駆けつけたりした。

 南部修太郎と湯河原温泉の中西に泊まり合わせた時など、

「君くらい落ち着きのない、しじゅうソワソワと何かしている男もないね。折角温泉場へ静養に来ているのだから、少しはユッタリとしたらどうだ?」

 と、南部にたしなめられたという話がある。それが、私と一緒の時など、私がたしなめられる番になるのだった。

 私は平安朝が好きで、よく芥川さんをつかまえては平安町のよさを並べ立てたものだ。人の夢をぶちこわすことの好きな芥川さんは、

「そんなことを言うけれど、早い話が、あの時代にはお砂糖がなかったんだぜ」

「ええ、だけど、あのころに生まれれば、甘葛 ( あまずら ) で結構甘いと感じたに違いありませんよ」

「いやだね、感じたとしても―――。お砂糖の甘さを知った以上、甘葛に返るのはまっぴらだ。君本当に甘葛で我慢できると思うか」

「……」

「それに君、綿がなかったんだぜ」

「その代り、幾人でも恋人が持てて、毎晩新しい恋人と一緒に寝ていられれば、綿のない寒さぐらいしのげたでしょう」

「君は得恋 ( とくれん ) の環か物語ばかり読んでいるから、そんな夢見たいなことを考えているんだ。あの時代にだって、失恋の事実はあったんだぜ。久米のようにいつでも失恋に泣いていなければならなかったとしたら、綿のない夜や夜なはたまらないと思わないか」

 こんな風に、現実的というのか、論理的というのか、相手をグーの音も出ないようにやッつけてニコニコ笑っているのが芥川さんの好みだった。

 それでいて、負けてもちっとも不愉快にならないのは不思議だった。要するに、暖かな心をもっていたのだろう。形はやッつけていても、内心では会話を楽しんでいたという方が当たっているのだろう。

 いつかなど、本郷の切通しを歩いていると、「砕氷機 ( さいひょうき ) 」という大きな看板が目に付いた。すると、芥川さんが、

「砕氷機というのはおかしい」

 と言い出した。

「おかしいことはありませんよ」

 と私が言うと、

「おかしいさ。だって君、氷を砕いたら何になるんだ?」

「大きな氷を小さく砕くんだから、ちっともおかしいことはない」

「氷を砕いたって氷じゃないか。氷以外のものになるのでなければ、おかしいよ」

 そんなことを言い合って、いつまでも歩いていた。

 話を平安朝に返すと、芥川さんは突然、

「永井荷風の江戸賛美論なんか、論になっていやしない。悪い方面には一切目をつぶって、いいところばかり拾ってそれを賛美しているんだから、こんな無責任なことはない。君の平安朝賛美も同じことだ。久保田君の議論にもそういうところがある。三田の伝統かね」

 見たの伝統かねと言って、チクリと制すのが芥川さんの好んで使った論法だった。しかし、この場合でも、意地の悪さなど微塵も感じず、会話の面白さに誘い出された。

 話は、平安朝の食べ物のことになって、

「あのころの天子さまよりも、今の僕たちの方がずっと上等なものを食べていることは確かだね」

 そんなことを言い、あのころの御馳走の主なるものを口早に並べ立てて、

「僕は江知勝 ( えちかつ ) の牛肉を食っている方がいいな」

 そう言ってから、

「牛肉の人一倍好きな君が、琵琶湖の鯉を珍重していた平安朝を賛美するなんて、けしからん話だね」

 そんなことも言った。それからクダモノの話になり、

「この間、龍井君が遊びに来て、何か菓子を出したら、どんなにうまい菓子の甘さでも、木で熟したクダモノの甘さのよさには及びもつかないと言っていたが、確かにそうだね」

 芥川さんはそう言った。

「そうですよ、日本の菓子の甘さのネライは―――」

 私は何かの随筆で読んでいた日本の菓子の甘さというか理想というか、そのことを思い出してつい言葉に力を込めて言った。

 今は早くクダモノを木からもいでしまうからダメだが、昔は木で十分熟させてからもいだものだ。これが、一番クダモノのうまい時機である。龍井考作が言うように、甘さの最上のものだろう。

 ところが、日本の菓子の甘さの標準は、木で十分熟した甘さにあったのだ。平安朝には菓子がなく、菓子と言えばクダモノのことだった。もとはそんなところから出発して、砂糖の甘さをそこまで洗練することを悟ったのだろう。

 そこに甘さの標準を置いたなんて、世界中どこにもない舌を東洋人は持っていたのだ。その舌が、今日ではなんと堕落したことか。

 

底本:小島政次郎全集 第4巻 p.42~48
昭和43年1月31日 鶴書房刊