まるさんの資料置場

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「島木健作と秋田」 著:山崎義光

 平成24年度夏季大会にて「林房雄と島木健作の昭和10年代」の題で発表させてもらった。発表では、島木の昭和13~16年における文学的営為をとりあげ、林房雄の文学的営為と対照しながら論じた。この題材は、私にとって論集『近代の夢と知性 文学・思想の昭和十年前後、』 ( 翰林書房 2000年10月 ) に関わった頃からの終わりなき宿題である。ここでは、発表で触れられなかった小トピックスとして、島木の東北旅行、なかでも秋田訪問で出会った人物とのかかわりについて記しておきたい。


 島木は、昭和10年に青森 県出身の相澤京と結婚したことも契機となって、昭和11、13、15年に東北、北海道を旅している。昭和11年1月、京の姉・良が苛酷な取り調べを受け亡くなっている。良の死と火葬の模様、遺した手紙について島木は、「東北の娘 墓参」 ( 昭13年10月 ) に記している。昭和11、13年の2度の旅行にもとづいた紀行文『男鹿半島』 ( 「文学界」昭13年10月 ) は島木の東北紀行のなかでももっともよく知られているだろう。昭和14年には満州の農村を見聞旅行し、翌年『満州旅行』 ( 創元社、昭15年4月 ) を刊行。昭和16年には、前年の朝鮮を含む旅の見聞記 ( 「地方の表情」の題で「中央公論」昭16年1月~9月 ) をまとめ『地方生活』 ( 創元社、昭16年12月 ) を刊行している。これらは、風景風物ではなく、民衆生活の実態見聞であることに特徴のある紀行文である。その一方、これらの旅行に取材した長篇小説もこの時期勢力的に書いている。

 その中の一つ、『人間の復活』 ( 「婦人公論」昭14年1月~15年12月 ) は、出獄して東京にもどった社会運動家・秋山とその妻・光惠を中心に、この夫婦と交際する人々の群像を描く。地方での生活に挫折し東京にやってきた教師とその教え子、北海道の実家で農民を描いてきた画家、あるいは小説が書けなくなった女性作家、経済学者の家族などが登場する。このうち、小学校教師を形象化するにあたってモデルの一人となったと思われる人物に、秋田で出会った加藤周四郎がいる。


 加藤周四郎 (1910~2001 ) は、戦前の秋田で小学校の教員をしていた人物で、教育雑誌『北方教育』の同人だった。北方教育運動は、秋田を中心に、綴方教育の理念と方法を現場の教師たちが実践、発信した活動で、高井雄一『真実の学校』 ( 新潮社、1980年10月 ) が、当時の活動を事実にもとづいて描いている。島木との交流について加藤は回想を残している ( 「わが北方教育の道」無明舎出版 1989年7月 ) 。昭和13年、島木は土崎港から秋田市街までをつないでいた秋田電気軌道に乗って、八橋の油田を眺めながら、加藤の勤めていた高等小学校 ( 現在の山王中学校付近 ) を訪れている。その時のことを島木は『今日の学校』 ( 「文芸」昭13年10月 ) に記している。加藤によれば、8月2日、秋田県立図書館楼上で開かれた『北方教育十周年記念会』にも島木は出席・挨拶したという。加藤は『人間の復活』に登場する小学校教諭、村上大五のモデルの一人が自身であると記している。子どもの綴方教育、職業教育に力をそそぎ、現場の経験に立脚して教育理論を練り上げようとする村上大五の姿は、加藤の姿と重なる。ただし、あくまでモデルであって経歴がなぞられているわけではない。小説では青森で秋山の妻・光惠の同窓だった人物とされ、東京で発行される教育雑誌の編集にアカデミズムの理論ではなく現場教師の意見を反映させて編集にたずさわる姿が描かれている。島木は加藤と、昭和15年に秋田を訪れた際にも会っている。その時、加藤は秋田県職員として働いていた。この訪問について、島木は『地方庁』 ( 「地方生活」 ) に記している。加藤は、昭和15年11月20日に治安保護法違反の容疑で検挙される。事実無根ながら、生活実態にもとづいてリアルな綴方の運動がコミンテルン配下の共産主義革命運動と結びついたものとみなされたことによる。「地方庁」の初出『地方の表情』 ( 「中央公論」昭16年1月 ) が掲載されたときにはすでに検挙後であり、また『人間の復活』連載完結とほぼ同時である。

 島木が秋田で知り合ったもう一人の人物に大瀧重直がいる。大瀧は、由利群岩谷村の出身で、本荘中学卒業後、秋田魁新報の記者を勤めながら、農作業をして暮らしていた。大瀧は島木の作品を読んでいた。島木と東京で知り合っていた東京日日新聞社の丸之内久に誘われて、加藤周四郎らと座談会に出たのが島木との最初の出会いだった。ちょうど『続・生活の探求』 ( 河出書房、昭13年6月 ) 発刊直後である。島木『秋田の人々』 ( 『地方生活』 ) 、大瀧『満州農民紀行』 ( 東亜開拓社、昭17年10月 ) の「あとがき」、『ひとびとの星座』 ( 国書刊行会、1985年4月 ) の「島木健作」、そして『義の人と求道の人 島木健作と亀井勝一郎』 ( 『北方文芸』1968年5月 ) などをつきあわせて読むと、記述に不整合もみられるが、この間の島木との出会いと動きがわかる。新聞報道に対する内務省からの統制が強まるなか、大瀧は記者を続ける意欲をなくしていた頃だったという。その年の秋、大瀧は記者を辞めて満州に行く。

 翌昭和14年3月から6月にかけて、島木も満州に渡り、その見聞を『満州紀行』に記した。また、その前後の島木自身の身辺を題材に小説家した『或る作家の手記』 ( 創元社、昭和15年11月 ) も刊行する。この時の満州旅行で、島木は大滝とハルピンで会っている。大瀧はハルピンとチチハルの間にあたる満州国賓江省安達にあった興亜農場を拠点に一年近く満州の農村を見聞した。その後も終戦までの7年間、たびたび満州を訪れ、その体験をもとに小説や紀行を発表する。最初の小説『劉家の人々』 ( 満州開拓社、昭16年6月 ) には島木が「序文」を寄せている。翌年『満州農村紀行』を刊行。戦時下、もっぱら満州での見聞にもとづいて、日本人、満州人、朝鮮人、白系ロシア人など「五族」の軋轢の姿を描いた。『解氷期』 ( 海南書房、昭18年4月 ) で、昭和19年の第一回大陸開拓文学賞を受ける。大瀧の文学的営為は、師事した島木のそれと近接した性格をもつ。二人は、満州国の「五族協和」という理念を現実化すべき理想として受け要れながらも、国策的甘言に対し、そうではない困難な実態を描くことで内破しようとした。島木は主として日本からわたった人々の開拓農村に焦点をあてたのに対して、大瀧は生活・文化の差異と係争の絶えない、満州人、朝鮮人、ロシア人の暮らしぶりや意識を描き出そうとした。その点では、島木よりもラディカルに実践しようとしたといえるだろう。

 なお、『義の人と求道の人』によれば、大瀧の持っていた島木の書簡は、全集刊行の際、小林秀雄にあすげたが収められば、どこにいったかわからないという。大変残念である。

 昭和10年代は、戦争を掛け金に、間違いのない “ 現実 ” 認識も、あるべき未来像も見通しにくく、夢魔のような現實に、憑かれ、強いられ、迷走した時代ではなかったか。事後的に見通しの利く視座から図式的に裁断することはたやすい。強いられてあり、“ 正しさ ” がつかみにくく、見失いがちな社会のただ中にあって、「文学」者は何をいかに書こうとしたのであったか。そのような観点から、昭和10年代の文学的営為を掘り起こして問うことから、今教えられることは大きいように思える。

 幼年時に秋田から北海道へわたった小林多喜二の『蟹工船』 ( 『戦旗』昭4・5年6月 ) は、北海道、青森、秋田出身の労働者たちを描き「この一篇は、「植民地における資本主義侵入史」の一ページである」と附記した。
宮城から北海道にわたった父をもつ島木は、プロレタリア文学が解消するときに作家として頭角を現し、一貫して地方の農村を、なかでも東北・北海道に関わり生きる人々を描いた。小説『嵐のなか』( 『日本評論』昭14年10月~15年11月 ) をはじめ、近代化と北海道をモチーフに描くとともに、実質的な植民地として満州の実態を描いた。島木にとって北海道という「半植民地」 ( 『忘れえぬ風景』、『東陽』昭11年8月 ) と北東北とのかかわり、それと満州はひとつながりの出来事として見えていたであろう。だが、理論的に世界像を与える思想への多喜二のような信奉は破棄した。それは強いられた破棄でもあったであろう。が、否応なく強いられてあること、そうした人々に寄り添うことのなかで、いかに “ 書く行為 ” によってかかわるかという問いのうちに島木の文学的営為があった。秋田での一コマも、そうした文脈のなかで捉えたい。

日本近代文学会東北支部会報 第45号 より
2012年10月

http://www.ne.jp/asahi/yamazaki/kasetsuhome/papers/201210yamazakiyoshimitsu.pdf