まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

「むかで」 著:島木健作

1944年 ( 昭和19年 ) 12月 執筆

 

 ある夜更けに、ふと目覺めて、枕もとにカサッといふ物音を聞いた。物音の方が先でそれで目覺めたのだつたかも知れない。夏の夜の室内の物音には家ぢゆうの者が敏感になつてゐた。私の家はすぐ裏に崖を負うてゐるせゐか、百足 ( むかで ) が多かつた。この百足は東京にゐた時には全く知らなかつたものだつた。今年になつてからは、つい數日前にも妻の寢床のなかへ這つて行つた。蚊帳を釣つてゐても少しも安心はできない。またその少し前には母が刺された。もつともこの時は、咄嗟のことですぐそばに手頃な打つ物がなかつたために、母は老人らしい無頓着さと、ちよつとした炭火のカケラぐらゐは平氣でつまむやうな掌の厚さに對する自信とから、素手で叩きつけたからである。寒國の人間である母は百足についての知識はなく、毛蟲ぐらゐにしか思つてゐなかつたらう。さすがの老人も刺されてみて大へんな奴だとふことを知つた。刺された指を片方の手でしつかり包んで、眼を閉ぢて、むーッと息をつめてゐるのが、なんとなく滑稽でもあり、氣の毒でもあつた。深夜なのに家にはアンモニアの備へつけもなくて困つた。

 私は今の物音は百足が天井から疊へ落ちる時の、あのバサッといふ乾いたやうな、百足類らしく可愛げのない粗暴な音とは、ちがふと思つた。私は開放療法といふことで、夜通し窓をあけて寢てゐる。家は鎌倉でいふ谷 ( やと ) のなかにあるから、夜、あかりをつけてゐる時の蟲の集りやうといふものは物凄いほどである。とても蚊帳のなかにでなければゐることができない。昆蟲の専門家である友人が訪ねて來た時に、すぐ前に迫つてゐる山をつくづくと見て、

「ここは蟲が寄るだらうなあ。黙つて坐つてゐて随分珍しい奴にぶつかるだらう。どうだ、道具をみんな揃へてやるから、今度癒つたら採集してみないか?」そんな風に言つたことがあつた。病氣になつて人間と社會との交渉を斷つてからは、この夜の蟲の亂踊が私にとつて一番派手な慰めだつた。私は蚊帳のなかにゐて眺めながらぼんやり時を過ごした。やがて消すと、暗闇のなかにパタパタパタパタといふ音だけがきこえる。その音も段々小くなつて行く。最後に啼かぬ蟬とかかなぶんぶんぐらゐが蚊帳にくつついて殘る。私は今日の一日も終わつたといふ感謝と安心の氣持のなかに眠りに落ちる。

 私は今の音はそのかなぶんぶんか何かだらうと思つた。するとその時カサ〱カサ〱といふ音が連續して忙しさうにきこえて來た。それは子供の時に遊んだ小蟹を思はせる音だつた。それはどうやら、蚊帳の外ではあるが、枕にすぐ近いところにおいてある洗面器のなかからするものらしい。洗面器は、夜喀血した時の用意においてあるのだ。私は伸び上がつて、手を伸ばして、蚊帳の内側からスタンドのスイッチをひねつた。

 洗面器のなかに落ち込んでゐるのはかなぶんぶんどころか、百足の、しかもずゐぶん大きな奴であつた。

 私は大聲で隣室の妻を呼んだ。妻は聲でそれと察して起き上るなり叩く物を持つてやつて來た。

「どこですか?」百足は速いから一刻を争ふのである。

 妻は外へ這ひ出した瞬間を打とうときめたらしい。私もそのつもりで氣をつけて見てゐた。と、私達は奇妙な發見をした。百足はその長い二本の觸角を眞直ぐに伸ばして、狭い洗面器のなかをしきりにぐるぐる廻つてゐるのだが、なかなか外へ出ようとはしない、――いや、出られぬのである。

「意気地のない奴だなあ。」私は笑ひだした。そしていくらか安心した餘裕をもつてなほしばらく觀察することにした。

 洗面器はどこにでもある瀬戸引のものである。底邊をぐるぐる廻つてゐる百足は、やがて頭をきゆつと持ち上げると、上の縁を目がけて山を登りはじめる。頭が上の縁までもうぢきに届く、といふ所までは彼は登ることが出來る。しかしその時百足の胴體の半分以下は、山の丸味と勾配のために、半ば地から浮き上つた形になつて、無數の足は踏み場なく、ただ空しく忙しげに動いてゐるばかりである。足が多いだけに却つてそれは徒勞の感を深めて笑止だつた。百足は折角取りついたところから一歩も引くまいとしてしがみついてゐるが、やがて力盡きて、するすると辷り落ちる。それを何度も繰り返してゐる。何しろあのつるつるした瀬戸引きは百足の足にはひどく都合のわるいものらしい。底を這ひまはる時にもなんとなくよそよそしてゐる。

 二人はもう十回程もそれを繰り返すのを見てゐた。妻は洗面器のなかで退治るしかないと思つたのだらう、叩くよりはつぶす武器を持つて來た。

「そのままにしておけよ。」と私は言つた。「明日の朝まで。」

「逃げたらどうします?」

「逃げられたら逃がしてやらう。明日の朝までそのままにしておいて、逃げられたらそれでよし、逃げられないやうなら、運のない奴だから殺してしまはう。」

 それで、そのカサカサといふ音が睡眠の妨げにならぬ場所まで洗面器は持つて行かれた。

 翌朝起きるとすぐ私は聞いた。

「百足はどうしたい?」

「ええ、あのまんまです。」

「いよいよ運のない奴ときまつたかな。」

私は洗面器を持つて來させた。百足は少し弱つてゐるやうだつた。身のこなしものろくさへ見えたし、もう昨夜程さへも山を登ることができぬところを見ると、明らかに弱りだしてゐるのだつた。

「晝までのばしてやれ。」

 私はさういつた。百足が落ち込んだのは全く偶然の不幸だといふことが私の頭にあつた。選りに選つて間のわるい所へ落ち込んだもので、それは百足自身の知つたことではない。彼自身の全能力を發揮して敏速に行動できる當り前の場所で叩き殺されるのは、戰ひであつて、打つ方も打たれる方もさつぱりするだらう。彼自身の不注意とさへもいへぬ不幸なのだから、なるべく助けてやりたかつた。しかしそれはこつちが手を添えてやるといふのではなしに、彼自身の力でその窮地から脱出するのを黙認するといふことで、助けたかつた。「よし、たいとう助かつたな。今度は堂々とやつて來いよ。」といつてやれるやうに。

 晝まで待つた。同じことだつた。弱りは一層目に見えて來た。元氣な時でさへ脱出できふものがかうなつてはもう望みはない。しかし私は尚のばした。

 助けてやりたい氣と同情とは別だつた。同情は全然起こらなかつた。百足が害をする奴だ、といふこととは全然無關係に。「なんといふ不自由なものだらう! 」さう思ふと、何かいまいましいやうな腹立たしさを感じた。あんなに剽悍な奴が住み慣れた自然界を出て人工の世界に一歩足を踏み外すと、こんなちよつとしたことでもう身動きがとれなくなつてゐる。

 私はまた偶然の不幸に落ち込んだ人間に對すると似た氣持ちを感じた。知人のなかなどによく、夜片足を溝泥のなかに突つ込んだやうな不幸をなんといふことなしに突き次に重ねてゐる者がある。人間の場合は無論複雑だ。しかしさういふ人間に對すと、やはり一種の苛立ちを感ずる。助けたくは思ふ。しかし素直に同情が起らない。この素直に同情が起らぬところが似てゐるのだ。

 夕方になると百足のあの強靭な觸角までがげんなりした來た。氣力盡きた感じが、二年前に修善寺で、急流を渡らうとして失敗に失敗を重ねてやはり氣力盡きた赤蛙を見たことがあつたが、それとこれとは雲泥の差といふよりは、何の共通點もなかつた。赤蛙には敗れたもの、滅ぶるものの美しさがあつたが、百足にはみじめな醜さがあるばかりだつた。赤蛙には内からの意志があつたのである。

 私は妻を呼んで百足を殺させた。妻は洗面器を庭に持ち出し、百足を地上に放ってから殺した。死ぬ前にもう一時土の上を這はしてやりたいといふやうな氣が妻にあつたかどうか。地の氣の吸った瞬間、百足はあッといふほど元氣を取り戻し、全然本來るの面目を取り戻し、妻を狼狽させたといふ。それを聞いて私は心を打たれた。可哀想なことをしたいとふ氣がはじめてしたが、後の祭りだつた。