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「赤蛙 解説」 ~中村光夫

昭和23年11月10日刊行 日産書房
『赤蛙』の解説として 中村光夫氏が記す

 

 島木健作氏の遺作集「赤蛙」を一讀した。氏の本領はもとより長編にあり、短編小説はむしろ餘技であらうが、この餘技のなかでも氏は「黒猫」「赤蛙」の二つのすぐれた収穫を遺して行つた。これは兩者とも最近雑誌に發表され、それぞれに世評を呼んだものであるから今更云々するのは時機おくれかも知れぬ。
 しかこの二つの短編――といふよりむいろ病中のスケッチ――は生前の氏を多少知つてゐる僕に、或る不思議な感銘を與へるものであつた。
 いはばこの二つの風變りな小説は、單に僕の心に晩年の氏の風貌を生き生きと蘇らせてくれたものでなく、僕ば氏の生きた精神に感じてゐた信頼と尊敬とが、決して一片の私情から出た思ひ過しでないことを判つきり示してくれた。
「言葉といふものは、それが或る固定した形をとつた瞬間から、すでに自分のものでない」といふ意味のことをヴァレリイは云つてゐるが、すべての文學作品は、それが或る完成を要求する以上、たとへ作者の過去の総決算であつても、その未來についてはいつも甚だ不十分な暗示でしかあり得ない。優れた作品は作者の或る時期の精神の姿態の、力一杯の表現であるが、しかし作者の精神は、これを書き終わつた瞬間にそこから脱皮して新たな可能性の實現に突き進む。だから生きた作家の精神から見れば、彼の作品はつねにその過去の結晶であり、いはばその脱皮の残骸にすぎない。そして作家の精神は ( といふよりむしろ人間一般の精神は ) その孕む可能性の希求に生きるほかはないとすれば、その現實の生態は、必ず彼の作品とは別の或る物な筈である。フロオベルもドストエフスキーも、他人の眼からは最高の感性と圓熟に達してゐながら、その死に際しては幾多の「書くべき作品」を夢見てゐたのである。
 しかし幸か不幸か、かうした作家の孤独な夢は、多くの場合、讀者に何の關係もない、彼の死とともに葬られてしまふ秘密にすぎない。ちやうど實社會が或る人の死後に對して下す評價がその野心か夢にかゝはりなくたゞ彼が實際になしとげた事業によつて決定されるやうに、想像力を生命とする文學においても或る作家の死んだのち、彼のためにものを云ふのはただその作品のみである。そして作品が彼の精神の現實の姿、すなはちその未來に孕まれてゐる種々の可能性につして、極めて貧弱な暗示しか與へぬことは既述の通りである。
 だからたとへ彼ばそれまでの自作にどれほど不満があり、これを超えた高い希求を燃やし、巨大な未來を夢見てゐようと、死はその一切を破碎して餘すところはない。
 言葉をかへて云えば死は、否應なくすべての作家を「完成」させてしまふ。どのやうな天才の死もこの點では凡人と何等異なるところはない。彼はその作品とともに過去に結晶し、いわばそれだけの人として葬られてしまふのである。

 そして処女作「癩」以來、十年の間その病苦によつて、絶えず死を凝視して生きることを強ひられて来た島木氏が、その晩年の病床にこれらの異色ある短編を書いたのは、かうした作家の宿命に對するさゝやかな抗議だつたのではなからうか。
 これまで世評の高かつた「生活の探求」や「再建」などから氏に對する評價を輕率に定めてゐた人は、おそらく「黒猫」や「赤蛙」を讀み、島木とはこんな小説も書ける人かと意外の感に打たれたに違ひない。いはば氏はこれまでの作品が必ずしも氏の精神の全貌を劃したものでないことを端的に云ひ捨てて死んだやうなものである。ことに「赤蛙」に貫く、或る突き詰めた意志の抒情には、平素は華やかな流行作家の假面を蔭に隠れてゐたこの孤獨な詩人の面貌が判つきり浮び出てゐるのである。
 この優れた散文詩は作者が病中の散歩の途上に見た一情景のスケッチにすぎないものであり、おそらく島木氏自身がそれを事々しく論じられるのを意外に思ふであらうが、しかしこの些細な風景はそれを凝視する氏の肉眼と渾然と溶けあひ、氏の精神の息吹きに痛ましいほどの荒々しさで貫かれてゐる。氏の藝術家たる感受性の現實に生きる姿がこれほど判つきり現はれたことはおそらく他にないのである。
 ちやうど、人形使ひの名人の魂がおのづらその人形に乗りうつるやうに、いつか讀者にはこの夕闇の静かな自然に呑まれる小動物の悲壮な最期を氏の魂の風景として感じてしまふ。
 そして「秋の夕べ、不可解な格闘を演じたあげく、精魂盡きて波間に没し去つた赤蛙の運命」に、氏は單に自然の神秘を見たのみでなくどこか心の奥底で氏自身の短い生涯の象徴を感じてゐたのではなからうか。
 赤蛙の夢は後にしばしば氏の病床を訪れた。

 「赤蛙」の素材は、自然梶井基次郎の名作「交尾」を思はせる。伊豆の蛙も昭和の文壇に二つの優れた商品を寄與したわけであるが、「交尾」「赤蛙」を隔てる二十年の間に、無数の小説家の捕へて來た雑多な「現代人」のうち、この二匹の蛙ほど生き生きと描かれたものが果たしてぐれだけゐたであらうか。
 そしてこのことは島木氏と梶井氏とが、世間で考へるよりもずつと近い血縁で結ばれた二人の藝術家であることを暗示するのではなからうか。
 むろん「交尾」と「赤蛙」では作風がまるで違ふやうら、兩氏の藝術家としての個性はそれぞれ別物であらう。河原の石に化けて河鹿の求愛を樂しむ梶井氏は、狭いながら柔軟透徹な自然觀照から、その感性の詩を完成してゐたに反し、島木氏の自然に對する態度にはどこか理屈ぽく人間的な頑なさを感じさせる。梶井氏が自我を自然に没入し、これと同化し得る型の詩人であつたに反して、島木氏の感性はあくまで自然を人間の側に引き寄せねば止まなかつた。これは兩氏の抱いた「思想」の差異よりもむしろずつと根本的な気質の相違であらう。いはば梶井氏が自然詩人であつたに對し島木氏は道徳の詩人であつた。大きく云へば李白と杜甫の違ひなのである。
 しかしかういふ風に兩氏の気質は表面正反對に見えても、それがおのおの誠實な感性の動きを通じて、極限に把んだ自然の形は同じものだつたのではなからうか。そこから實生活の不幸に堪へて生きる或る激しい意力と信念を孕み取つてゐるのも同じなのではなからうか。
 いはば生死の顧慮を踏み越えてその孤獨な制作に邁進した氏等の潔癖な藝術的意欲は、その心の奥底に把持した自然への信仰の純粋性と密接に表裏するものではなかつたか。
 そこに「或る盲目な力」が引摺られる二つの魂の悲劇を見るのは僕等傍人の感傷であらうか。
 この二人の藝術の殉教者の心底に生きてゐた秘密がこれ以外のものであつたとは僕には思へないのである。そして、このやうな秘密を持たぬ作家はたとへどれほどゆたかな才華に惠まれようと、結局は俗世間に寄生し、時勢の變化に應じて機敏に衣装をつけかへて踊る道化にすぎないのではなからうか。
 さきに僕は梶井氏を自然詩人と呼び、島木氏を論理の詩人と呼んだが、これはもとより兩者の個性の色調の差を形容したまでであり、かういふ大まかな區別が絶對のものではないのは誰しも知る通りであらう。
 純粋な自然詩人が多くは潔癖な論理家であるやうに、人間世界の葛藤を歌ふ論理詩人も彼が詩人である限り、自然はその心の奥底に脈打つてゐる。だから社交と禮儀を極度に重んじるフランスの文學界でも、そこで眞正の仕事を遺した作家は、いつも野人である。少くも生れながらの野生を最後まで失ひ盡さなかつた人である。
 島木氏も梶井氏もその短い生涯を真摯な羞み屋の野人として終始した點では同じである。それで梶井氏が一面において極度に鋭い論理感覺の持主であつたことが、その書簡や手記に判つきり窺はれるやうに、論理と思想の問題とが取り組み、そこに生命を捧げて悔いなかつた島木氏が、その心の最後の撚り所としたのは、おそらく自然であつた。
「自然の神秘を考へる時にもたらされる、厳粛な敬虔なひきしまつた気持、それでゐて何か眼に見えぬ大きな意志を感じてそこに信頼を寄せてゐる感じ」
 と氏は「赤蛙」の終りに云ふ。
 自然は文學者たる氏にとつておそらく神であつた。

 梶井氏は昭和初年の左翼全盛期の文壇の一隅に、不遇な無名作家として短い生涯を送り、「のんきな患者」の一篇を中央公論に發表して間もなく、多忙な未來を惜しまれながら夭折した。
 これに反して島木氏は左翼廃滅後の文壇に一時島木時代を造つたほど華々しい活動を示したのは周知のことであらう。
 しかし作家としての規模の大小を一應度外視して、その完成といふ點から見れば、島木氏き梶井氏に比して遥かに未完成の作家であらう。
 むろん今のところ島木氏の人気は梶井氏に比して量の上では壓倒的である。しかし島木氏の全集が梶井氏の全集のやうに死後二十年を經て再び刊行されるかどうかは少くも疑問であらう。
 しかしこれは云ふまでもなく島木氏の才能が梶井氏に比して劣つてゐたためではない。また氏の作品にいはば時代の匂ひが強すぎるためでもない。これは根本において、氏の小説制作の方法がこれまでの我國にない全く新しい方法であつたためと僕は信じてゐる。
 感性を通じて人間を描く技法ではおそらく世界有數の繊細な發逹を遂げた所謂小説道の名人達に伍して、氏はまづ思想と観念を通じて人間を把へることを願つた。敢へて比喩的に云へば、氏は生きた人間を描く前に、まづ考へることを願つた。人間の肉体を描くより、まづその精神の生態を究めることを試みた。
 これはたとへば性欲が描かれてゐない小説は虚偽の作品だといふやうな自然主義以來の迷妄になほ暗々裡に支配されてゐる我國の文壇では、甚だ大膽なそして危險な野望であつた。云ひかへれば、この氏の個性の強ひられた道は、その達成には長い孤獨な努力を要する性質のものであつた。そのために氏の作家としての生きた十年の歳月は氏のひたむきな努力を以てしてもあまり短かすぎるものであつた。おそらく氏にとつてこの十年は眞の島木文學の土臺をつくる準備として思へなかつたであらう。また氏の旺盛な制作力と、次第に圓熟を加へて行く作家的技巧とは、たとへ氏のこれまでの作品に不満な者にも、その多望な将來を期待さすに充分であつた。
 しかし不幸にして氏の肉體はこの稀有の強靭な精神をその破滅の道連れにしてしまつた。そしていま僕等が島木氏の死をどほど惜しんでもそれは甲斐のないことであらう。今後島木氏はおそらく氏の眼にも不満な試作によつてのみ世に記憶すれるほかはないのである。しかし氏の現實に生きた精神を多少とも知る僕はいま氏の作品を讀み返しても、氏がこれだけの人であつたとはどうしても思へない。さう思ふには氏の作品はどれもあまりに若く未完成であり、その未熟さの裏に潜む可能性の巨大さに較べれば、氏がこれまでに得て來た一時的名誉などはものの數でないからである。
 そしてこの可能性を實現すべき精神はすでにこの世にはないとはちよつと信じ難いからである。しかしこれも島木氏の言葉を借りれば「冷厳な現實」であらう。事實の前には僕等は頭を垂れるよりほかはない。
 だがそれと同時に僕は島木氏が死とともに彼の世へ持つて行かねばならなかつた文學への執念の強さを思ふのである。むろん死に際してこの世への何等かの執著妄念を殘さぬ人はないであらう。だが氏の場合この執念はおそらく氏が生きてさへゐれば必ず實現できたに違ひない正當な執念であつた。
 そして僕がかういふのは決して單に氏に對する私情からではない。「癩」から「礎」まで氏の制作の系列を讀み返して見れば、たとへ氏には行為を持たぬ讀者でも、そこで氏が徐々ではあるが著實に絶え間なく進歩してゐるのを認める筈である。
 そして氏の不幸は、かうした氏がひたむきな成長のあとに脱ぎすてて行つた抜殻にすぎぬ多くの未熟な試作が、ただ意圖の新しさゆゑに、一部の讀者から過當に迎へられ、曖昧な時代の雰囲氣がいつか氏を流行の波に乗せてしまつた點にあつた。
 島木氏は所謂文壇的に見れば幸運すぎる程運の強い作家であつた。しかし文壇で幸運すぎるといふことが、その陰に作家の孤獨と不幸を育てぬ場合は稀なのである。
「轉向者の思想的な苦悶を正面から誠實にとりあつかひ、道義的なものを求める大多數の智識階級の同感を得たのが島木健作であり、彼はプロレタリア作家さしてではなく、轉向者として、その作家活動を開始したのである。『癩』『盲目』から『一つの轉機』『第一義の道』と、社會の冷眼、信念の喪失のうちにも『人間』としての誇りを失ふまいとする必死の甦生への努力を、やや概念的ながら気魄をこめて描いた。 ……長篇『生活の探求』は……観念的といふ彼の弱點が作品の効果を弱めてゐるにも拘らず、この時代には珍らしい思想小説として青年の間に廣く讀まれ、影響を與へた。……
 しかし、時代の急迫は、彼をいつまでもこの境地に安住せしめぬであらう。これらの作家には最も觸れられたくない痛い面がある。ソヴェートをどうするか、マルクス主義とは如何なる關係に立つかといふことを解明せずしてはこれ以上一歩も進むことは不可能だ。島木の人気がなほ過去の幻影を追ふ、『進歩的青年』の間にあることは彼の清算を絶對的なものとし、彼に新日本の作家たる資格を認めることは困難である。」( 文藝五十年史 )
 と昭和十七年に杉山平助氏は書いてゐる。この大ざつぱであるが、或る常識に裏付けられた評言は、( むろん島木氏の藝術に對する批評としては甚だ薄浅であるがそれだけに  ) 當時の文壇に氏の占めた位置と、更にその背景をなした時代の暗鬱なうねりの強さとが的確に反映してゐるのである。
 もし昭和初年の左翼運動の悲惨な壊滅がなかつたら、島木氏は、たとへ詩人として生まれついてゐても、或ひは職業作家にはならなかつたかも知れぬ。またこの陰鬱な反動期に無爲と混迷を強ひられた潔癖なしかし意志の弱い知識階級の或る低迷した鬱憤の捌け口として迎へられなかつたら、氏の小説はおそらくあれほどの世評を得なかつたであらう。
 しかし一面においてかうした意外な幸運を惠んだ時代の流れは、根本において氏自身の作家的存在を抹殺し、その「人間としての誇り」を奪ひ兼ねぬ性質のものであり、しかもその「時代の急迫」は特に太平洋戦争の勃發後刻々その激しさを加へて行つた。そして杉山氏の批評の最後の部分はかうした時勢の暗黙の脅威を端的に代辯してゐる點で特に興味深いのである。
 戦後に僕等を訪れた「新日本」が當時の杉山氏の豫想とは全く正反對になつてしまつた今日では、かうした言葉もすでに歴史的興味しか持たぬかも知れぬ。そして今では島木氏に對してむしろ反對側からの批難が豫想されるのである。
 しかしこのやうな時勢の重壓がとれほど氏の心を暗くしてゐたかは、島木氏の短い文學的生涯を顧みる場合、僕等の忘れてならぬ事實であらう。
 元來作家は時代の動きに敏感なものである。ことに浮草のやうなジャーナリズムを相手に仕事をすることを強ひられてゐる我國の作家は誰しも必要以上に時勢に對して過敏である。だから島木氏の執るペンはいつもこの眼に見えぬ壓力を重く感じてゐた筈である。そしてこの抗ひ難い怪物に對する無力な憤怒は絶えず氏の危い健康を蝕んだであらう。
「刻々と彼は追ひつめられて行つた。しかし執拗に書いた。陽の當たらぬ忌はしい場所に生れた植物が、おまけに絶えず風雨にいためつけられ、葉をのばすと傍から摘まれながら、なほも芽を出して生きねばならぬ、その生命の約束、その勤勉、そのばかなそして必死の營み、――彼の仕事はそつくりそれだつた。」
 といふ高見氏の言葉は、晩年の島木氏を含んだ時代の暗影を思ふとき、おそらく誇張ではないのである。
 しかし氏はかうした時代の壓迫にも拘らず、その把持する思想の根本については何等の動揺を見せなかつた。杉山氏も指摘してゐるやうに取材の上での左翼的色彩は、「生活の探求」を轉機として氏の作品から消えて行つたが、現代社會の問題と真面目に取り組み、かつ思想による人間の形成を信ずる根本の熱情は何等衰へを見せなかった。おそらくこの場合、氏の熱情を支へたのは最早何等かの「思想」の定形ではなく、赤裸々な氏の自然詩人たる資性だつたのであらう。
 氏は時勢が一つの思想の宣傳を許さなくなると、たちまちこれと正反對の思想の宣傳屋に身を轉ずる破廉恥な「轉向」とは全く無縁であつた。
 したがつて、「癩」から「礎」にいたる氏の作風の變遷は一面から見れば時代の壓迫の結果であるが、更に根本的には氏の作家たる成長と完成への途上に刻まれた記念碑だと云つてよい。
 高見順氏は島木氏がいかなる惡時代でも書くことを止めなかつたのは尊いといふ意味のことを島木氏追悼の文章に書いてゐたが、變態的な戰時景氣が出版界を潤してゐた當時の文壇ではただ書くことを止めなかつたといふだけなら、さして尊むべきことだとは僕には思へない。
 島木氏の偉さは軍報道局の壓迫と勸誘によつて多くの作家が沈黙し、堕落し、逸脱し、要するに文學者はゐても文學はないと形容したかつた當時の文壇にあつて、單に消極的に自己を守り通したのみでなく、更にその極惡な条件をも自己の文學者たる成長に逆用した點にあつたのではなからうか。
 氏が生前に完成した最後の長編「礎」はこの點から見て特に興味深い作品であらう。數年にわたる病苦の沈黙から新たな再起の意気込みで書かれたこの小説で、氏は或る意味でその作家たる出發點であつた「癩」に歸つてゐる。兩者とも氏の作品のうちでは、私小説の匂ひが最も強いものであり、自分と友人といふ對立が構成の根本をなしてゐる點も同じであり、その二人の主人公のうち作者の分身と思はれる人物よりむしろ友人の方が發剌と描けてゐるといふ、作品の缼點と云へば云へるところまで似てゐるのである。( 島木氏は在來の私小説の概念から見れば、「自分」の描けぬ人であつた。氏の身邊に取材した「赤蛙」「黒猫」などでも、その「主人公」はこれらの動物であり、そこに登場する作者ではない。これは我國の「小説家」の通年から見れば、明らかに氏の資質の缼陥であらう。しかし僕等はここに氏の作家としての本質的な新しさを見るべきではなからうか。かうした「缼陥」を逆用して、從來にない新たな文章表現の開拓に努力したところに氏の思想小説が眞にその作家的個性の必然たり得た所以が存するのではなからうか。 )
 しかしかうした作家の資性から來る本質的な相似は却つて、この十年の間に氏の作家とをなす氏の幼年時代の回顧は、そのまゝ氏の成長した時代を衝き、そこに主人公が無意識の裡に抱く疑惑と批判とは、おのづから作者の思想の形成の秘密とその生きた必然性とを讀者の胸に印象する。いはば氏はここで自分を書くことは、すなはち社會を書くことだといふ氏が頑固に守つて來た文學的信条を始めて或る程度の成功を以て實現した。これまでひたむきに「現代」を見詰て來た氏が、こゝで始めて己れの生きて來た時間の流れの再現をその作品に試みた。おそらくこの二つは氏にとつて別々のことではなかつたであらう。作者にとつて己れの上に現實に流れ去つた時間の再建とは、すなはちその肉體の發見であり、そのことは、彼の生きた社會の現實の姿に或る個性的なパースペクティヴを持たずには不可能だからである。
 この意味でさきに述べた島木氏の視野の擴大はその自己を凝視する眼の深まりと厳密に照應する。いはばそれは氏の作家的成熟の二つの面にほかならない。そしたこの照應が常に氏の心のうちで潔癖に守られた點に、氏が眞實の文學者――すなはち言葉の最も廣い意味での詩人であつた所以が存するのではなからうか。
所謂社會小説家として令名を得た氏が、「小説は所詮私小説だ、私小説でないものは信用できない」 ( 高見氏の回想 ) と確信した理由もおそらくこゝにあらう。
 マルクス主義文學の退く潮以來、小説に「社會」を描くことは多くの作家の野望であつた。そしたこの野望の所産である「社會焼成」がさまざまの形で排出したのも周知の通りである。しかしこれらの「野心的」な流行作家のうち、誰がその描く「社會」を己れの作家たる心に生き生きと結び得たであらうか。この手馴れぬ素材をその精神の血の通った風景に造型し得たであらうか。バルザックやトルストイの影響も再び表面的な模倣を生んだにすぎなかつた。
 かうした文壇の風潮のなかで、島木氏はひとり思想や社會といふ我國の文學界に始めて出現した怪物を正面から組み伏せることに作家たる心胆を摧いて來た。安易な傳統を離れて、この未知の領野に、荒地に鍬を振ふ開拓民に似た孤獨な努力を続けて來た。思想を生きた現實の人間化し、また逆に人間の思想による形成を生きた姿で辿ることによつて、社會を己れの精神の内的風景――すなはち文學として表現すること、こゝに氏がその短い生命を賭けた孤獨な野望があり、この洞見の正しさを證すものは、たゞ氏自身の誠實のみであつた。
 そして氏の最後の作品である「礎」においてこの切り拓かれた荒地のなかに、氏がわづかに耕し得た畑に始めて氏自身の手によつて新たな生命が芽ぐみ始めた。
 氏の前作「生活の探求」の駿介がいまだ作者の觀念の傀儡の粋を脱せぬに反して、「礎」の主人公は同じく強力な観念と思想の権化ではあるがはじめて生きた人間として作品に登場する。言ひかへれば作者の心内の存在ながら、同時に現實の流れに生きてゐる。
 そしてこゝに表はれた作者の成熟の飛躍に較べればこの小説の持つ種々の缼點などおそらく云ふに足りないのである。
 ちやうど科學者が長い實驗の末漸く或る顕微な有機物の合成に成功するやうに、氏はたゆまぬ努力の末、はじめてその思想から人間を創りだすことに成功した。永らくその表現の触媒を求めて彷徨した氏の觀念はやうやくこゝに肉體として生きる道を見出した。
 氏が孤獨のうちに育てて來た未開の新たな企圖から、はじめてこの時藝術が生れかけたのである。
 おそらく氏が病苦の床にかうした長篇を書上げる異常な努力を可能にしたのは、この發見の歓喜であらう。この歓喜は氏にとつてその生死の顧慮より強いものであつた。
 しかし氏の衰へた病軀は、氏がやうやく開墾した処女地が最初の収穫を惠みかけたとき、もはやそれ以上の努力を許さなかつた。

 そして氏がわづかに完成し得た「礎」にもこの病苦の痕跡はまざまざとうかゞはれる。氏の虚弱な肉體は常にそね作品の上で氏の強靭な意欲を裏切つて來たのであるが、ことに「礎」は作者が序文に述べてゐる意圖は半ばも實現されてゐず、また書かれた部分についても後半の満州の邊は著しく手が抜けてゐて感銘が希薄である。これはこの小説で「私」の思想的成長を描き得なかつた時勢の壓迫のせゐといふより、むしろ作者の肉體の衰へのためであらう。
 しかしこの未完成な性格そのものに、作者の病苦と意思との間の必死の闘ひを思ひ、さらに氏がもし生き永へたらば實現し得たであらう種々の可能性を想像するのは僕だけであらうか。

 

 「礎」が出版された頃、氏は割合に元氣で、長らく就いてゐた床をはなれ、時には散歩にも出られるくらゐであつた。そして時たま訪ねて行くと必ず引止めてくれ、夜おそくまで話し込んでも疲れた風は見えなかつた。話は全部文學のことであつた。島木氏が見かけによらぬ人懐つこい話好きであるのを知つたのもその頃のことであつた。思へばそのとき氏の心には死の影が射してゐたのかも知れなかつたが、迂闊な僕はもとより、氏自身もこれほど間近とは夢にも思はぬ様子であつた。
 そして「礎」についての僕の無遠慮な批評も眞面目にきいてくれてから次のやうに云つた。
「云ひわけをすりやそりやいろいろあるよ。たとへばあそこで主人公の思想と俺のあの頃の思想とを對決させたかつたんだがそれは今書けないといふ風にね。しかしそれは問題ぢやないんだ。あの後半のやうな略した書き方だつて君、ロシアの小説なんかにあるだらう。だからああいふ方法を使つてそれでうまく行かなきや、それはつまり俺がまづいんだよ。」
そして僕がそれを肯定すると、
「俺は自分の小説をを観念小説だとか教養小説だなんて云はれるくらゐ厭なことはないよ。ドイツのビルドングス・ロマンなんで讀んだつてちつとも面白くないものね。俺はただ社會を描くことは自分を描くことで、自分を書くことは社會を書くことだと思つてゐるだけだ。俺はそれよりほから書きやうがないんだから。しかし始めは觀念みたいにしか見えなくつてもだん〱描寫の彫りを深くして行けば、きつとそれは人間になるよ。觀念で人間は書けないかも知れないが、觀念から人間は創れるよ。俺にはそれ以外の道はないんだ。」
 またその晩であつたか、ほかの晩だつたか次のやうにも云つた。
「文學は君、誰の小説を讀んでも、まづ二十年はかけなくちゃね。それもいゝ加減ぢやだめで一生懸命にやつて二十年はかゝるね。それからやつと本物が書けるんだ。」
「俺たちはまだ青年作家だよ。これからだよ。」
 僕はここで自分の拙い筆が氏の聲音を寫せぬのを悲しむほかはない。しかしこれらの言葉を語つたときの氏の眼の輝きを僕はなほ生きてゐるものとしか思へないのである。
 氏は文學の頂きを遠く見詰めた人であつた。しかし氏はその攀 ( よ ) じねばならぬ道の険しさや遠さのためにその歩度を決してゆるめなかつた。そしてたゞ己れの宿命の命ずるままひたぶるにその心身を勞して悔いなかつた。したがつてこの氏自身にしか見えなかつた坂路の険しさに堪え得ずに氏の肉對が半途で挫折したとしても、幸ひかうした才能の宿業を持たぬお蔭で生き延びてゐる僕等が何を云ふべきであらふか。
 たゞ僕はここで島木氏が修善寺の渓流で見入つた赤蛙を、ことにその最期の姿を思ひだす。
 そしてこの流れを渡るために幾度か必死の努力を繰り返した末、結局その目的の一歩前まで來ながら、ただ岸の大石に登る力がないために、悲惨な死に追い込まれる赤蛙の姿態は、何か薄気味惡いほど氏の運命に似通つてゐるのである。
「事態は赤蛙にとつて、悲惨なことになつてしまつた。……彼に殘された活路はたつた一つきりだつた。石に這ひ上ることである。だがこの石の面たるや殆んど直立してゐて、その上に水垢でてらてらに滑つこくなつてゐるのだ。長い後肢も水中では跳躍力もきかず、無力に伸したりかがめたりするのみであつた。時々彼の前肢は石の小さな窪みに取りついたが、すぐにくるつと引つ繰り返つて紅い斑點のある黄色な腹を空しくもがいた。……
 やがて赤蛙は最後の飛びつきらしいものを石の窪みに向かつて試みた。さうしてくるつとひつくりかへると黄色い肢を上にしたまま、何の抵抗らしいものも示さずに、むしろ静かに、すーと消えるやうなおもむきで、渦巻のなかに呑みこまれて行つた」
 と氏は赤蛙の死を描いてゐる。
「なべて山の頂にのみ憩ひあり」と詩人は云ふ。文學も藝術もすべて人間精神の抱く高貴な憧れは、現實の世界ではこの「水垢でてらてら滑こくなつた」絶壁に似てゐるのではなからうか。