まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

「灰色の月」について 志賀直哉~続々創作余談から

「灰色の月」(1945年 昭和20年 62歳)

 

あの通りの経験をした。あの場合、その子供をどうしてやつたらいいか、仮に自家( うち )へ連れて来ても、自家の者だけでも足りない食料で、又、自身を考へても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調にかかつてゐる時で、どうする事も出来なかつた。全くひどい時代だつた。この短編を「世界」の創刊号に出した時、批評で、私がこの子供の為めに何もしなかつた事を非難した人が何人かあつたが、私はその非難をした人達に同じ事を経験させて見たいと思つた。作品の批評ではそんな事をいふが、実際に其場合、その人達はどういふ事をするだらう。私は何事もしてやれないと感じて、しなかつたのだが、私を非難した人達は出来ても恐らく何もしない人達だらうと思つた。
 東京駅のプラットフォームで分かれた二人の連れといふのは一人は和辻哲郎君で、もう一人はその後、暫くして亡くなつた仁科芳雄氏である。仁科氏とは二三度同席した程度であるが、学者としてばかりでなく、人間としても却々( なかなか )立派な人だといふ印象を受けた。苦心して作つたサイクロトロンを進駐軍が毀( こ )はして持ち出す時の話をする時でも、少しもその事に対する自分の感情を表はさずに云つてゐるのを聞いて私は感心した。

(昭和30年6月)