まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

「島木健作・最晩年の短編小説集」 著:佐藤義雄一

人文科学研究所年報 No.30 (p.55~58)

 

昭和十年代の文学の研究 個  人
島木健作・最晩年の短編小説集

佐 藤 義 雄

 敗戦の翌々日の島木の死を前に久米正雄は〈ひとつの時代の死〉と眩いたという(高見順「昭和文学盛衰史」)。久米や高見の思いを越えて,その語感からひとつの象徴的な光景が浮び上ってくる。いわゆる昭和十年代作家の宿命が,そこに典型的に刻まれていると見るべき風景である。
 島木は「生活の探求」以後「人間の復活」(昭14年1月~15年12月)「嵐のなか」(14年11月~15年11月),「運命の人」(15年7月~16年6月)といかにも島木らしい表題の長編群を書き続け,やがて戦局もおしつまった19年11月に〈少年〉〈青年〉〈壮年,死〉の三部よりなる教養小説(ビルドゥングス・ロマン)「礎」を完成させていった。思想小説の担い手島木にとって長編は必須の形式だったというべきであろう。これらを跡づける事は今は不可能だが,「礎」の結末近く主人公矢波の言うく廃残ともいふべき疲れた心の底から,全くちがった息吹がかすかに息づきはじめている〉という言葉に,新生への希いが,それこそ〈かすか〉に読みとれるのであり,その心境を前提として動物短編の世界が開かれてくることにもなる。

 島木晩年の短編集『出発まで』には13編が収められている。以下簡単に書誌を確認しておく。執筆時期の最も早いものは「青服の人」(15年1月)であり、翌16年には「出発まで」(4月)「雨期」(8月)「煙」(9月)「芽生」(10月)の4編が書かれ,その後病患他による3年余の空白の後,20年に「背に負うた子」(1月)「蒲団」(2月)の二作が発表されている。以上が生存中に発表されたものであり,この他に遺稿として「黒猫」(20年11月)「赤蛙」(21年1月)が発表され,更に「小さな妹」「野の少女」「むかで」「ジガ蜂」の四編が既発表分の編と併せられて昭和21年3月新潮社から単行本『出発まで』として刊行された。

 これら13作の中4編の動物短編は,三好行雄(『作品論の試み』所収「赤蛙」)によれば,<短編集の不足をおぎなうために〉書き下したものであり,素材・執筆時期・そして主題という面から言って他の9編とは自ら別の作品群と見るべきであろう。13の短編群の中,秀作と言いうるのはやはり一連の動物短編であり,他作は観念化の著しい晩年の長編群と異る私小説的スタイルをとっており,長編群に見られない静譲な心境が日常の場において語られているとはいえ,結晶度に乏しい。

 短編集「出発まで」における動物短編は,図書刊行会版全集では計40頁にすぎず,量的には少い。しかしそれにも拘らずその様相は島木の全作品の中で,他の諸作とは決定的に異る独自の世界を示している。中村光夫が「これまでの作品が必ずしも氏の精神の全貌を尽したものでないことを端的に言い捨てて死んだようなもの」(「島木健作の文学」―『赤蛙』について」「座右宝」昭21年9月)と言う通りである。

 そこでまず「赤蛙」についてであるが,これについては,例えば大久保典夫の「作者の『赤蛙』観は,そのまま『癩』から『礎』までの作家コースの対象化に他ならない」(「島木健作・晩年の転換をめぐって」「現代文学序説」昭39年9月)というような評が定説であろう。確かに何か運命的なものにつき動かされてのような赤蛙の行為は,転変に転変を重ねつつ〈一本の道〉(「自作案内」昭12年12月)を追い続けた島木自らの生涯と雁行しているし,同時に又,杉野駿介に始まる一連の長編群の主人公群像の生のあり方を象徴したものと言うこともできよう。しかし「赤蛙」一編はただちに過去を対象化したものでしかないのか,そのようなものとして詠嘆的な作品でしかないのか,私には疑問である。過去の対象化の先に島木は,かすかかもしれないが何かを見出し始めているのではなかろうか,そう私には思えるのである。

 赤蛙の〈飛びこんで流される〉くり返しを,〈私〉は〈馬鹿な奴だなア〉と始めは思っている。しかし真摯に執拗に同じ行為を反復する彼を見つつくある目的を持って,意志を持って,敢て困難に突入してゐるのだとしか思へない〉と厳粛に考え出す。その思いはついで彼に〈本能的な生の衝動以上のもの〉〈何か眼に見えぬ大きな意思〉を見るに至っていく。赤蛙はやがて最後の試みを小さな石の窪みに向って行うのだが,目的に反して〈くるっとひっくりかへると黄色い腹を上にしたまま,何の抵抗も示さずに,むしろ静かに,すうっと消へるやうなおもむぎ〉で,従容とした感じで渦中に呑み込まれてしまう。そういう一匹の赤蛙の死に〈不可解な格闘を演じたあげく,精魂つきて波間に没し去った赤蛙の運命は,滑稽といふよりは悲劇的に思へた〉と〈運命〉の〈悲劇〉を〈私〉は見るに至る。

 島木は自身の生涯を一匹の赤蛙の営為に托してこのような形で描く。確かに赤蛙も赤蛙に托された島木自身の生涯も〈悲劇〉的なものではあろう。しかし作品全編の印象は必ずしも暗くはない。結末の静けさは虚無的なそれというよりもむしろ,懸命にその生涯を生きたもの,最後はその運命を自覚しようとまでしたものだけが残しうる,充足した静寂と見るべきだろうと思う。長編群の悼尾「礎」の主人公矢波が結末近くで語る「廃残ともいふべき疲れた心の底から,全くちがった息吹がかすかに息づきはじめてゐる」という心境とこの静寂は,踵を接していて,島木自身は赤蛙の死の先に,一種澄みきった生への意思をほのかながら感じていたと思われる。

 この点について他の動物短編「むかで」「ジガ蜂」と,作中の〈私〉の意味の考察を通じて考えていってみたい。
 まず「ジガ蜂」。病床生活の静けさの中で〈煩はしくうるさかった〉ジガ蜂がいつか消え去り,気うとい〈私〉の病気のような〈ヨボヨボしたカマキリ〉や〈出来のわるい干葉のやうな色〉をした臭ガメムシとともに〈私〉は冬を過す。しかしまた〈暖かい季節が巡って来て〉,ジガ蜂が病室を訪れてくる。「ジガ蜂」の主題・主想はそのように〈部屋うちに溢るるばかりに遍満して来た〉ジガ蜂の翅音に〈衰へた心身にしみとほるばかりの生の歓喜を感じた〉〈私〉の蘇生感にあると見てよかろう。そうであってみれば,これは〈悲劇〉的な「赤蛙」像とは余りにもかけ離れているという事になるではなかろうか。やはり「赤蛙」の底部に流れる〈生への意思〉を読まざるをえないと思うのである。

 「むかで」の場合も同様である。暗闇のなか,吐血用の洗面器におちこんだむかでの姿に〈私〉は,捕えられなお〈カサカサカサ〉と音をたてて這いまわる〈みじめな醜さ〉しか見出しえない。しかし〈私〉は直ぐに殺そうとはしない。それはむかで自身が自らの力で窮地から脱する可能性を期待するからであり,又洗面器の外の〈さっぱり〉とした〈戦ひ〉の場で叩き殺したいからでもある。が,むかでは弱っていくばかりで,自力で脱しうるようには全くみえない。〈私〉はついに我慢できずに妻を呼んで殺させる。妻の話によれば,むかでは〈地の気を扱った瞬間〉〈あッといふほどの元気を取り戻し,全然本来の面目を取り戻し,妻を狼狽させた〉という。追いつめられ無力の抵抗をなし,しかしその抵抗をも放棄していくむかでの姿は己の半生の姿に他ならないのだが,この作品の主想はそこにではなく,むしろ最後に力をふりしぼって〈本来の目的〉を取り戻そうとしているむかでの姿にあると私には思える。

 「ジガ蜂」と「むかで」とは,作品の構造は全く同じであろう,小動物の姿を通して過半生を語り,同時に又そこに現在の生への意思をほのめかせるという構造。そしてそうであってみれば「赤蛙」もこの範疇に加えてくることは可能でもあり,むしろ自然でさえなかろうか。

 そこで第二の問題,「赤蛙」における〈私〉の問題へと進んでみたい。「赤蛙」冒頭には浮薄な社会への〈私〉のリゴリスティックな嫌悪が展開され,作品はその嫌悪感が赤蛙のひたむきな姿を対照的に結晶させていく,という構成をとっている。軍需成金や狡智な旅館業者の蹟庖する現実に不気嫌を通りこして毒念ともいふべきものがのたうってきた〉と,〈私〉の〈毒念〉が発端となって,それが赤蛙体験によって浄化され,最後に〈厳粛な敬度なひきしまった気持〉になっていく,という構成である。つまり赤蛙体験もさること乍ら,浄化された私の心境そのものを描く事もモティーフであった筈である。赤蛙の行為に托されたものが過半生であるとするならば,その過半生を〈私〉はいたましいものと見つつ,一方では現在から未来にむけての生を肯定する基盤としても見ているわけである。

 ところで「赤蛙」に島木の作家コースの対象化を見る時,何度でも濁流に躍り込んでいく赤蛙のイメージに最も濃く重なる作品は何であろうか。そこに「生活の探求」をあてはめる事は容易だが,私には「運命の人」の杉原耕造がまず想起される。杉原には二度の挫折があった。恐らく社会主義であろうイデオロギー的挫折と帰農しつつ結局農民の狡智な嘲笑に逢わねばならなかった挫折(帰農の挫折)と。それらを通して島木は,例えそれが如何なる性格のものであれ,知識人の責任意識が,この現代にあっては風雨にさらされるしかないと語りたいかのようである。しかしなお杉原は再度の帰農を試みる。それはつまり,農民の受けとめ方がどのようなものであっても,己に与えられた宿命に従容として生きるという事であろう。杉原の場合は悲劇的である。しかし「赤蛙」の〈私〉はもっと澄明であり,「ジガ蜂」「むかで」にな
ると強い生への意思を提示してくる,というような段階はあるが,これらの諸作は強い一本の糸でつながれているように思われる。

 動物短編4編の中,私がもっとも重要とみるのは前掲の3編よりむしろ「黒猫」である。あらずもがなだが,プロットの確認から始める。

 病床で地理雑誌を眺めていた〈私〉は偶然〈傲岸〉たる気位の樺太大山猫の話をみつける。樹上から狩人を翻弄する堂々たる野獣である。数日後〈私〉はこの大山猫に一脈通ずる野良猫が家の内外に出没し,荒し廻っているのをみつける。その悠然たる姿は,食料難の時代に〈尾羽うち枯した〉姿で人間の顔色を伺っている飼猫とは全く対照的であり,又その堂々たる〈夜の怪盗〉ぶりは陰気な病床にある〈私〉には救いだった。〈私〉は徐々に〈彼のへつらはぬ孤傲に惹かれて〉いく。やがて彼は〈堂々と夜襲を敢行し,力の限り闘って捕へられるやもはやじたばたせず〉従容として母の〈老人らしい平気さ〉で〈処理〉されていく。次の日から〈卑屈な奴等だけがのそのそと這ひまは〉っていくようになるのだが,それはくいつになったらなほるかわからぬ私の病気のやうに退屈で愚劣〉なものであり,〈私〉はく今まで以上に彼らを憎みはじめたのである〉。

 この小説は多くの評者に一種の寓意小説とみられている。例えば亀井勝一郎は,この黒猫を小林多喜二を直接的には想定した非転向者の象徴と見,飼主をなくした謳い者の野良猫を時局に便乗した転向者群と見た上で「癩」「盲目」の主人公は,氏が抱いた強烈な理想的人間像であり,おそらく生涯を脅かす理想的人間像であったにちがいない。死に至るまでこの夢は縷々氏の病床を訪れた筈である。最後の名編「黒猫」はその亡霊である。(昭和文学全集解説)と初期短編との一致を説く。作家コースの対象化という「赤蛙」のモティーフを勘案し,更に島木と同様の道を歩んだとも言いうる亀井の同時代的実感に裏打ちされた言葉であることも考え併せると肯ずくべき見解と言えよう。

 あるいは又磯田光一の,黒猫は捕虜とならずに死んでいった日本の農民兵であり,「へつらい者」の飼猫は戦争傍観者,時局便乗的転向者であり,黒猫を殺した人間の世界はアメリカである。(中略)言葉の誤解さへなければ,私は島木の死を殉死とみたい。それは悲しく散った農民兵士の心の真実への,畏本主義のエトスへの,そしてまた思想としての「日本」への,この上なく愚かしい殉死であった。生きてアメリカ民主主義の便乗者となるよりは,黒猫と共に死にたいという,愚かしい「平常心」を,幾分かの偶然の助けをかりて,彼なりに実現したと見て良いのではないか。(「転向文学試論」昭37年11月「新思潮」)という戦後文学批判の立場からの寓意の絵解きもある。寓意と見るならばいずれの読みもひとつの立場としてありうるわけだが,しかし寓意小説が常にそうであるように,この場合もくそうであるかもしれないし,そうでないのかもしれない〉といわざるをえないだろう。

 ところで小笠原克氏は「島木健作」(明治書院,昭40年)の中で大変興味深い京子夫人の談話を紹介している。それによると黒猫事件は実際にあったのだが,その〈処理〉は大変で黒猫は〈ギャーッとも叫ばなかった〉どころか死に物狂いに騒ぎまわり,島木はその度に階下に降りてきて大変な権幕で怒ったという。〈いずれにしても私が眠り,妻が使ひに出て留守であったのは幸いであった〉とは全く事実に反するという。

 当り前の事だが黒猫は動物の本能をあらわに死んでいったのであり,その事実が小説として,樺太大山猫にふさわしい従容とした死へと改変されていったわけである。
 飼主を失った犬や猫は〈私〉の状況そのものであり,悪環境でも己を失わず力の限り戦い,死に直面するやそれにたじろがず,従容とその宿命に従っていく黒猫は〈私〉及び島木の理念の姿なのであって,そうであってみれば決して寓意小説として読む必要などもないのではなかろうか。

 飼主から見放され食糧もなく,人間に誰ってひたすら己に執する犬や猫の姿は〈いつになったらなほるかわからぬ私の病気のやうに退屈で愚劣〉であり,〈私〉が黒猫の死後〈今まで以上に彼等を憎みはじめた〉のは,〈私〉自身彼等と同様,愚劣な日常の中で愚劣な衰弱した肉体を抱え如何ともし難いからに他ならない。そのような〈私〉の前で黒猫は〈私〉に替って,生と死のあるべきドラマを演じてみせてくれているのである。このように「黒猫」の構図を捉えてみると,それが「赤蛙」のそれといかに似通ったものかが明瞭となってくる。「赤蛙」の〈私〉がいかに欝屈した気分であったかは,作品の冒頭の描写を巡って前述した。又プロットにおいても,赤蛙の懸命な生の営みが結局濁流に呑み込まれていくという「赤蛙」のそれと,悠々とあるがままに生き,力の限り戦い,捕えられるや従容として死に赴くという「黒猫」のそれとは軌を一にしていると私には思われる。更に言うならば,それらの動物の死による〈私〉の心境の浄化という心境小説個有のモチーフも両作に顕現している。だとすれば「赤蛙」の底部に貫流する生への意思を「黒猫」に読むことも不可能ではないはずである。

 ところで作品の構図という点から考えてみると,「癩」や「盲目」等初期短編のそれと「赤蛙」「黒猫」のそれとは,作風の相違にも拘らず,奇妙に似通っている。死へとおしつめられつつ,なおあるべき己の姿を捨てず,逆に非日常的極限状況の中で意思の純粋さを結晶させていく初期短編群の主人公の姿,又,その主人公を見つめることによって生の可能性を切り開いていく島木の分身ともいえる副主人公の姿,その二者の対応の中での主題の提示,という人物の布置のあり様は,そのドラマの演じられる場こそ非日常と日常との相違はあるものの,「赤蛙」や「黒猫」の動物達と私との相関と本質的に同一である。亀井勝一郎は何気なく黒猫の姿を初期短編の主人公達の〈亡霊〉だとしているが,初期短編と動物短編の方法的一致とは,とりもなおさず発想そのものが類似した心的次元から出されているという事を意味しており,初期短編で想望した生への意思が,多くの曲節を経ながら最晩年まで脈々と息づいていたという事を意味しているのではなかろうか。

 日本近代の矛盾の一切を内包する〈転向〉の一事を己の文学のモチーフとして課すところから島木は遅れて作家的出発をなした。その後のジグザグなコースを激動の昭和10年代という時代に重ね,そしてその果てに至り着いた世界が,結局円還運動のはての出発期へのやや相を異にした帰還となる。島木は晩年の短編集の出版を見届けることなく,20年8月17日に没していく。体質的には随分径庭のある高見順の日記に島木の死の前後は詳しいが,その高見の「昭和文学盛衰史」によれば,8月15日の〈玉音放送〉を聞きつつ島木は〈これからやり直しだ〉と眩いたという。島木の真意はついに知ることのできぬものであろうが,衰弱し死をほんの睡前にしつつこう言いえたのは,少くとも島木は敗戦による虚無や混乱とには陥っていなかったからであり,そうさせたのは「運命の人」あたりからの自己の宿命の自覚と,そこから発する生への希求があったからだろうと,私は考える。

 島木健作の戦後文学とは,ついに空想裡のものでしかないのだが,しかし激しい〈空想〉を私に駆り立てる。晩年の蔵書として北海道開拓史資料が多く残されているが,転向後の本庄陸男が「石狩川」に賭けたごときものが胚胎していたのか,あるいは又「城の崎にて」を転換点として「暗夜行路」に情熱を傾けた志賀直哉のごとく,「礎」の世界を更に深化させていくことになったのか,いずれにせよ,私達が現在所有する戦後文学史は別の局面を迎えることになっていた筈である。

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/14372/1/jinbunkagakunempo_30_55.pdf