まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

「島木健作追悼」 著:川端康成

「新潮」1945年 ( 昭和20年 ) 11月20日発行

 

 島木君と最後に會つたのは、あの8月15日の兩三日前だつた。確かに戦争が終わるらしいと聞いて、早速私は報せに行つたのである。病院で絶對安静の病人から空襲の不安を緩和すれば、病氣にもいいかと思つた。ちやうど鎌倉文庫の貸本の配當を届ける用もあつた。日本の降伏について感想をもらし合ふやうな應對は、その時しなかつたのは無論である。話する間もなく私は別れた。その時の島木君の言葉で覺えてゐるのは、「川端さん、お元氣さうですねえ。」といふひとことだけだ。島木君は非常に愛情をこめて言つた。自分の命の終りを見ながら自分を離れて人の命をいつくしむやうな聲だつた。

 

 戦争が終わつて後、私は昔からの日本のあはれに沈みゆくばかりで、山里にでも入りたい厭離の心が逆に身は日本橋の真中に出て日々をまぎらはしてゐるこの頃、島木君の最後の言葉を思ひ出す折々がある。生前新潮社に原稿が渡してあつた島木君の遺作集は「出發まで」といふ書名で、私は島木君から題簽 ( だいせん ) を書くやうに頼まれてゐた。島木君は日本の敗戦をも自分の過去をも「出發まで」とすることが出來る、さういふ人だつたかもしれない。戦後の文學の一つの確かな「礎」を失つたことで實に惜しいと考へられる。
しかし島木君は、心底自分のつたなさを不器用に責めさいなんで見るも気の毒なやうな人でもあつた。私の生涯は「出發まで」もなく、さうしてすでに終わつたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうと思はない。「お元氣さうですねえ。」と島木君の聲を思ひ出して自分に言ふと、涙がこぼれさうになる。

 

 島木君は8月17日の夜、鶴ケ丘八幡宮の参道の病院で死んだ。中山義秀君、小林秀雄君、高見順君、三浦君等が擔架を運んで扇ヶ谷の家へ歸つた。久米さんも手伝はれた。
月があつたが、私は提燈を持つて附き添つて行つた。一月ほど前入院の時も小林君や中山君等鎌倉の友人が擔架で運んだ。その時は晝間だつたが、布などの覆ひをかけると息苦しいといふことで、頭に夏の日があたり、擔架の揺れる苦痛を、島木君は口を結んで目を据ゑて必死にこらへてゐた。8月18日通夜、19日火葬、17日の23日に鎌倉文庫の貸本店で簡單な告別式を營んだ。