まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

「遠方からみた谷崎君」 著:里見弴

初出 『新潮』1924年 ( 大正13 ) 2月号
『自然解』1934年 ( 昭和9 ) 8月28日 新小説社刊

 

 谷崎君とは、随分古くから面識があるが、今日まで遂に深い交際はした事がない。それはただ、機会がそうさせたのだというよりも、幾分谷崎君の性格から来ている事のように思われる。性格というより、君の世の中に処して行く態度、と考えた方がむしろ当っているかも知れない。私など友達というほどに親しくない者から見ると、君は我々年頃の、つまり40前の文学者の中で、際立って大人らしい一家の主らしい、―――紳士といって当らなければ、一人の市民らしい風格を具えている人だ。一体今の我々年輩の文学者というものは、顔形こそは誰も大抵は年以上に見えるけれど、外の職業に従事している人と較べると、どこかに大人っぽくない所がある。「大人」というものに仮に一つの職業と見て、そこに玄人素人を区別するとすれば、どうも「素人っぽい大人」が多い、というような意味だ。そこがまた芸術家としての特異をなす所以であろう。偏心円的動きは古来芸術家のものだ。どこかに普通の大人でない所があり、普通の紳士でない所があり、普通の市民でない所がある。それは一人の芸術にとっての、美点で、同時に欠点なのだが、要するに避けがたい事だ。そして強いて避ける必要は少しもない事だ。 

 こういって来ると、谷崎君は我々の仲間で、一番芸術家らしくない人だということになるが、他の人は知らず、私とのほんの浅い交際からいうならば、実際その通りなのだ。大人らしい普通の市民らしい生活態度は、あるしは君の好みであって、本質的にいうとなると、大にまた違って来るのかも知れない。恐らくそうだろう。しかし外の仲間と違って、普通の大人のように、見えるという事も、他との特異そのものを考えれば、やはり一種の偏心円的な動きで、芸術的でない事もない。

 こんな風に私は遠くから見た谷崎君を語るより外に、何の材料も持っていない者だ。そのくせ始めて君を見たのは、明治43年の秋、―――今からいえば15年も前の事だ、たしか石井柏亭氏の洋行と山本鼎氏の除隊だったか入隊だったか、とにかくそういう歓迎送別いずれから会合を、当時、新興芸術のモンパルナスといった観のあった、例のパンの会で催した時の事だ。会場は小伝馬町の、たしか瓢箪新道とかいうのにあった西洋料理屋、三洲屋の楼上だった。画家、小説家、詩人、評論家、随分大勢が集って来た。主賓の二人は勿論の事、いま眼の前に、浮んで来る色々の人の顔を並べて見るならば、一間だけ畳敷きになっていた所へ、堅い番頭さんといった風の和服で、蒲原有明氏が早くから陣どっていて、例の疳高な笑声を上げていた。北原白秋は、年少にして当時既に声名があった。酔って、例のシャム出来の仏像のような、腫れぼったいうす眼をしていた。小宮豊隆氏は真赫になって芳町の雛妓 (おしゃく) を傍に引き寄せていた。伊上凡骨は、粉がふいたように蒼白んだ長面を振り立てて、盛んに訳の解らない呶号 (どごう) をつづけていた。梯子段の途中に蹲 (うずくま) って苦しんでのが柳敬助君だった。吉井勇も中心的の人物らしく振舞っていた。勿論小山内君もいた。与謝野氏もいた。和辻君も大人しく席に列っていた。それから五郎丸という妓もいた。今の田村寿二郎氏夫人、―――久喜久 (ひさぎく) もいたかと思う。『白樺』からは正親町公和、萱野二十一、それに私と、こう三人行っていたが、萱野はとにかく正親町と私とは知った顔も少く、いわば味噌っ糟の態で、隅の方に小さくなっていた。一座の壮んな意気は、―――「芸術のための芸術」といった解釈においての、スヰートな芸術的昂奮は、今思い出してもちょいと気持ちのいいものだった。そういう壮んな雰囲気の中で、私は始めて谷崎君と会ったのだ。誰が紹介してくれたのかは覚えていない。身体は太っていたが、顔附は―――無論当り前の事だが、とても今のような円熟の味はなかつた、ちょいと凄いほど悪党悪党していた。何でも他所でいい加減飲んでからやって来た容子だったから、酒がそういう相に変えて見せたのかも知れない。がしかし、その時分書いていた作とはよく釣合った悪党ぶりで、実は私は、ちょいと惚れをした。羽織も着物も紺絣で、袴を低く穿き、―――すべて当時の大学生の風貌だった。ただ帽子が不思議だった。三つ四つの子供が冠るような型の、ビロウドの帽子だった。後で聞けば、その前何か新しい芝居の総見のために、吉井勇やなんかとお揃いに拵えたものだそうだ。して見れば絵にあるラファエルなんぞの冠っている奴の形をとった、相応凝った好みだったのかも知れないが、見た眼にはどうしても赤ン坊の借り物だった。

 一体、作の発表をいうと、谷崎君より私の方が早いのだ。というのは、『白樺』はその年4月の創刊で、『三田文学』が5月で、谷崎君たちの『新思想』が6月、とこう3月つづいて、新しい雑誌が生まれたのだ。だから文壇への発足をいうならば、丁度二タ月の長があるわけだ。その時からして如才なく、君は我々の雑誌を讃めてくれて、中でも「給仕の部屋」という作を、激賞していた。作者は今興業銀行に参事を務めている (現在は然らず。) 正親町実慶、―――その晩一緒に行っていた公和の弟だが、私同様に親爺の眼をくらます隠れ蓑の筆名を、日下念 (言念)と称えていた男だ。で、その「給仕の部屋」は、男同士の変態性欲を描いたもので、ちょいと当時評判になった作だ。谷崎君でさえもまだそうその方面に指を染めていない時代だった。私はその日下言+念を妬ましく思って、君の激賞に軽い反感をもったことを覚えている。当時堂々と論陣を張っていた森田草平氏が、日下言+念と里見弴、どちらも同じような三字名を、いつの間にか混同してしまったものと見えて、その後二、三年してから、なんであったか私の作を讃めた文章の中に、この人のものは、「給仕の部屋」時代から、既に私は認めているのだという風に、ちょいと先見の明を誇っていた事がある。私にとっては、それは痛し痒しだったが…。

 その後も小網町にあった鴻の巣だの、帝劇、有楽座あたりの廊下だの、文壇的な会合だの、たまに顔を合わせる事はあったが、前にもいう通り、友達らしい交際はまるで無かったのだ。三年ほど前に私が田舎住居を思い立って、家を探していた時に、君の小田原の家が空くと聞いて後を借りる気で見せてもらうに行った事がある。その時は丁度留守で会えなかったが、ただ心持の上で、その時分から何となく親しみが生じて来た。その後君が横浜に住み、私は逗子に移ってから、極く偶 (たま) にではあるが、時々往き来もするようになった。夜近松秋江氏と二人で見えて泊って行った事もある。去年の正月には、家族連れで私が訪ねて行き、山下町の聘珍で一緒に晩飯を食った。丁度その晩から箱根に仕事をしに行こうとしていた谷崎君と同じ汽車で大船まで来て、あすこで君は同じ列車の後の方の箱、―――つまりそこで二つに切れて、小田原行きになる方へ乗換えなければならなかった。ちょいと赤帽が見えなかったので、私は君のスゥーケースを持って、プラットホームまで降りた。その拍子に、下駄を引くり返して、右の足脛を挫いたが、大した事とも思わず、「アッ」とか「痛い」とかいう声も上げないで、そのまま別れてしまった。その後私は十日あまりも立って歩けずに、鎌倉の小町園を病院代りにして、其処の庭師の男に療治を受けていた。『改造』の山本実彦君から聞いたといって、其処へ君は見舞に来てくれたりしたこともある。―――およそ以上述べたような、浅い交際なのだ。

 けれどもいつも何を材料としてともなく、今では私は君の性分をかなり深く知っているように思う。勿論それは私の好きな性分だ。しかし、その私の腹の中にある谷崎君の相は、いわば証拠のない事だ、自分勝手に拵え上げている相だ。公表すべき限りではないと思う。

 過ぎてしまえば何でもない事だが、かつて私が、かなり強い反感を君に対して持った事を、ここに附け加えて置こうと思う。それは君に鮎子ちゃんが生れて来た時の事だ、たしか『中央公論』に発表した感想文で、君は当時の君流儀に、子供の生れた事を、さも呪わしげにいっていた。その一年ほど前に、長女を得、五十日たらずでこれを失っていた私は、君のそういう心持を、呪わしく思わずには居れなかった。君はしかし、今では見るから善良なパパだ。そんな事まで当時すぐに見透して、少しも腹など立てなかったら、私もちょいと豪いのだが…。

 とうとう「印象」というような話は出来なかった。はっきりそういうものを受取るような機会がなかったのだ。初対面は15年も前の話で、前に述べた通り、詳しい事は覚えていない。結局、取纏りのつかない思い出話のようなものになってしまったが、今はこれでまけて置いてもらおう。