まるさんの資料置場

本に囲まれ 資料に埋もれ。。。じゃ、紙の削減ね。

資料

焼失したはずの明治天皇御座所のゆくえ 小林敏夫

聖蹟蒲田梅屋敷公園余話 御座所はいまでもありますよ 私がまだ広報課に在籍していた昭和五十五年二月のある晴れた日、広報課に聖蹟蒲田梅屋敷公園のことなら、なんでもよいから知りたいという恰幅のよいご老人が突然訪ねて来られた。梅屋敷の由来 ( 史誌十三…

蒲田梅屋敷の今昔 林 信孝

梅の名所蒲田梅屋敷 蒲田梅屋敷はその名のとおり梅の名所として江戸時代文政の頃から現在まで、蒲田の地に風雅を添え多くの人々をなごませ楽しませてきました。古来より蒲田周辺は梅園が多く、「江戸名所図会」 (天保七年 1826年 江戸須原屋刊行」には「此地…

「島木健作と秋田」 著:山崎義光

平成24年度夏季大会にて「林房雄と島木健作の昭和10年代」の題で発表させてもらった。発表では、島木の昭和13~16年における文学的営為をとりあげ、林房雄の文学的営為と対照しながら論じた。この題材は、私にとって論集『近代の夢と知性 文学・思想の昭和十…

「城の崎にて」と「濠端の住まい」・改訂版

『城の崎にて』と『濠端の住まい』は姉妹関係にある作品である。描かれた舞台も一方は鳥取の城崎温泉、他方は島根県は松江城の濠端の住まいである。松江城の堀端は一時ラフカディオ・ハーンも住んでいたので文学にゆかりの場所ではある。任意に選ばれている…

「島木健作・最晩年の短編小説集」 著:佐藤義雄一

人文科学研究所年報 No.30 (p.55~58) 昭和十年代の文学の研究 個 人島木健作・最晩年の短編小説集 佐 藤 義 雄 敗戦の翌々日の島木の死を前に久米正雄は〈ひとつの時代の死〉と眩いたという(高見順「昭和文学盛衰史」)。久米や高見の思いを越えて,その語…

「淋しき生涯」について 志賀直哉~続々創作余談から

「淋しき生涯」(1941年 昭和16年 58歳) 中村白葉君の訳したロシアの何とかいふ作家の「小悪魔」といふ小説を一寸面白く思ひ、自分も始終、自分の事ばかりを書いてゐず、「小悪魔」の主人公のやうな利己的ないやな奴を徹底的に書いてやらうと考へたが、さうい…

「早春の旅」について 志賀直哉~続々創作余談から

「早春の旅」(1941年 昭和16年 58歳) 時世は前と同じであるが、病気が快復したので、幾らか元気が出てゐる。大分、時が経つてから書いた旅日記だ。あの中で、東大寺赤門の上司海雲君を訪ねる所は一年か二年前に行つた時の記憶がそつくりその儘入つて、自分で…

「灰色の月」について 志賀直哉~続々創作余談から

「灰色の月」(1945年 昭和20年 62歳) あの通りの経験をした。あの場合、その子供をどうしてやつたらいいか、仮に自家( うち )へ連れて来ても、自家の者だけでも足りない食料で、又、自身を考へても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調にかかつてゐる時で、どう…

「蝕まれた友情」について 志賀直哉~続々創作余談から

「蝕まれた友情」(1947年 昭和22年 64四歳) 少し気が立つてゐる時で、どうしても一度は書かなければならぬ事だと思つて書いたが、今の自分なら恐らく書かなかつたらうと思つてゐる。 (昭和30年6月)

「赤蛙 解説」 ~中村光夫

昭和23年11月10日刊行 日産書房『赤蛙』の解説として 中村光夫氏が記す 島木健作氏の遺作集「赤蛙」を一讀した。氏の本領はもとより長編にあり、短編小説はむしろ餘技であらうが、この餘技のなかでも氏は「黒猫」「赤蛙」の二つのすぐれた収穫を遺して行つた…

「島木健作追悼」 著:川端康成

「新潮」1945年 ( 昭和20年 ) 11月20日発行 島木君と最後に會つたのは、あの8月15日の兩三日前だつた。確かに戦争が終わるらしいと聞いて、早速私は報せに行つたのである。病院で絶對安静の病人から空襲の不安を緩和すれば、病氣にもいいかと思つた。ちやう…

「黒猫」 著:島木健作

病氣が少しよくなり、寝ながら本を讀むことができるやうになつた時、最初に手にしたものは旅行記であつた。以前から旅行記は好きだつたが、好きなわりにはどれほども讀んでいなかつた。人と話し合つて見ても旅行記は案外讀まれてゐず、少くともある種の随筆…

「ジガ蜂」 著:島木健作

1945年( 昭和21年 )3月 初夏と共に私の病室をおとづれる元氣な訪問客はジガ蜂である。ジガ蜂の颯爽たる風姿はいかにもさかんな活動的な季節の先駆けたるにふさはしく、沈んだ病室内の空氣までがにはかに活氣を帯びて來るやうに思はれるのだつた。彼等は一…

「山科の記憶」「痴情」について 志賀直哉~続創作余談から

「山科の記憶」「痴情」(1926年 大正15年 43歳) 「痴情」「晩秋」「瑣事( さじ )」此一連の材料は私には稀有のものであるが、これをまともに扱ふ興味はなく、此事が如何に家庭に反映したかといふ方に本気なものがあり、その方に心を惹かれて書いた。「山科の…

「邦子」について 志賀直哉~続創作余談から

「邦子」(1926年 昭和2年 44歳) 「山科の記憶」など一連の作品の材料での心的経験を基に、存分に作つた小説。或る程度に打込んで書く事が出来た。信州沓掛 ( くつかけ )の千ヶ滝のホテルで前半を書き、戸倉といふ温泉に移つて後半を書いた。此小説は或人々に…

「豊年蟲」について 志賀直哉~続創作余談から

「豊年蟲」(1928年 昭和3年 45歳) 「邦子」を書上げ、やれやれとくつろうだ時の自分の状態を書いたもの。最近、武者が「日本評論」でこれを讃めてくれた。「豊年蟲」のやうな物は何と云つていいものか自分でもよく分からない。私では創作と随筆との境界が甚…

「菰野」について 志賀直哉~続創作余談から

「菰野( こもの )」( 1934年 昭和9年 51歳 ) 此小説は「暗夜行路」の最後と共に近頃では最も緊張して書いたものだ。材料そのものが、自分の気持ちにこたへたからでもあつたらう。然しこれも結局材料をまともには書けず、此材料を書くつもりで菰野に出かけ、…

「矢島柳堂」について 志賀直哉~創作余談から

「矢島柳堂」(1925年 大正14年 42歳) これは「白藤」「赤い帯」「鶴」と「百舌」を集めて一つにした。「鶴」と「百舌」だけに愛着がある。 (昭和3年7月)

「城の崎にて」について 志賀直哉~創作余談から

「城の崎にて」(1917年 大正6年 34歳) 「出来事」を書き上げ、其晩里見弴と芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰途、鉄道線路の側を歩いて、どうした事か私は省線に後からはね飛ばされ、甚( ひど )い怪我をした。東京病院に暫く入院し、危( あやふ )い所を助…

「雪の日」について 志賀直哉~続創作余談から

「雪の日」(1920年 大正9年 37歳) 我孫子の日誌で、此翌日の事まで書くと、一篇の小説となるものであつたが、早く新聞に出す必要のある事情があつて、其処まで書かずに了つた。今からではもう書けそうもない。然しあれだけでも私には安孫子生活の憶ひ出とし…

「焚火」について 志賀直哉~続創作余談から

「焚火」(1920年 大正9年 37歳) 前半は赤城山で書き、後半は四五年して我孫子で書いた。書いた時には如何にも書き足りない気がして止めて了つた。然し四五年して読むと案外書けてゐるやうに思はれ、後半をつけ、雑誌に出した。そして今では自分でも好きなも…