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作家はどのように誕生するか~コレットの場合

大妻女子大学紀要----文系----No.42,2010年3月

松田孝江

作家はどのように誕生するか

~コレットの場合~

1. はじめに

コレットがフランス文学の中で占める位置は, 今日では揺るぎないものになっている。

しかし日本ではもちろんのこと, フランスでも現在その作品は広く読まれているとは言いがたい。それに対して, コレットの伝記は何種類も出版されていて, 人々の関心を引き続けている。

コレットについては, 作家として残した作品以上に, 彼女がたどった人生の物語のほうが面白いということかもしれない。 本稿では, ひとりの作家が誕生する経緯を, コレットという魅力的なフランス女性のなかに見てみたい。

 

2. 結婚前のコレット

1889 年, 16 歳になっていたコレットは, 6 月初めに県庁所在地オーセールで行われた修了試験に合格し, 初等教育上級修了証書 certificat d’etudes primaires superieures を取得した。

父は学校生活に区切りのついたコレットをパリに連れていってくれた。 フランス革命百周年にあたるこの年は, 5 月 6 日にパリ万博が華々しく開幕し, 万博を記念して建てられたエッフェル塔は鉄の時代を告げるシンボルとなった。

しかしコレットの未来はまったく先が見えなかった。 家運が急速に傾きつつあったからである。 借金で身動きできなくなった一家は家財を整理して, 1891 年の秋にふるさとサンソヴールアンプュイゼを離れ, 長兄アシルが前年から医師として働いていた, 40 キロ離れたシャティヨンコリニーに転居した。

こんな時うら若い女性が夢みるのは, 今も昔も有利な結婚であろう。 2 年後コレットは, アンリ・ゴーティエ=ヴィラール Henri Gautier-Villars, 通称ウィリー Willy と結婚してパリに出ることに成功するのである。

 

3. パリのひとアンリ・ゴーティエ=ヴィラール

コレットの結婚相手ウィリーとは, どのような人物だったのか。

彼は 1859 年に, Jean-Albert Gautier-Villars (1830~1898) と Laure Pottier (1836~1904) の長男として, パリ南方エソンヌ県の, ヴィリエスュルオルジュ Villiers-sur-Orge に生まれた。 父親は理工科学校出のエリートで,通信網整備技術者として活躍した功績により, 1860 年に 30 歳の若さでレジオン・ドヌール勲章を受け, 2 年後新たにパリで出版印刷業を始めた。

ゴーティエ家は, スイス国境に近いジュラ県の県庁所在地ロンスルソーニエ Lons-le-Saunier で代々印刷業を営んでいた。 ジャン=アルベールは勝手知った家業に立ち戻ったわけである。 長男アンリと 2 歳年下の弟アルベール, 妹マドレーヌの教育は, 音楽好きの母ロールに任された。 父, 叔父, 弟, 妹の夫がみな理工科学校出身のエリートのなかで, ウィリーは法学部を出たものの, 詩作を好み, 作家になることが夢だった。 1888 年, 58歳になった父親は, 出版社を長男ウィリーに任せ, 自身は二男と共同で印刷所の経営に当たった。
しかしウィリーは, 結婚した 1893 年に出版業を父と弟に頼み, 文学と音楽評論に専念する道を選ぶ。 劣等感の裏返しだろうか, 折り目正しいエリート一家にあって, ウィリーは異質な存在だった。

1885 年頃から本作りの手伝いをしていた関係で顔は広く, 名の知れた文人たちにとり囲まれていたが, いささかいかがわしい, 山師的なところのある人物だった。

14 歳年上のこのダンディな男と田舎娘を取り持つ縁は何だったのか。 詩人肌で夢想家のコレットの父は, 伝記作家たちの説くところによれば, パリに行くとゴーティエヴィラール家経営の本屋に立ち寄り, 父のお供をしていたコレットはそこでウィリーと出会ったということになる。

またコレットの父とウィリーの父は,ともにクリミヤ戦争 (18531856) とイタリア統一戦争 (18591861) に従軍していて, 父親同士の縁が子供たちの結婚に発展したという説もある。

コレットと結婚する前のウィリーは, 私生活では苦境に立たされていた。 写真家であり風刺画家として活躍していた Emile Courtet (1857~1938) 通称 Emile Cohl と, 彼の妻をめぐって 1886 年 10 月 25 日に決闘したのだ。 その後ウィリーはCohl の妻と暮らし始め, 1889 年 9 月 19 日に息子 Jacques が誕生した。 Cohl は妻と正式に離婚し,ウィリーはジャックを認知したが, ジャックの母 Marie-Louise は 1891 年 12 月 31 日に 29 歳の若
さで病に倒れ, 後には 2 歳 3 ヵ月の幼子が残された。

ちなみにマリールイーズの実家 Servat 側は離婚を認めようとしなかった。 パリ南方バニュー Bagneux にある墓地に埋葬された 6 年後, パリにある Servat 家の墓所ペール・ラシェーズに遺体が移されたときも, 墓石には Mme Courtet 旧姓 Servat と刻まれた(1)。

ウィリーはこうしたことに厳格な自分の両親には当初一切を隠していた。 ジャックが生まれたことを知っていたのは弟アルベールだけだった。 幼いジャックについて,1892 年 1 月 24 日, コレットの母 Sido は嫁いだ娘ジュリエットに書いている。 ウィリーが近所にジャックを預けにきて, アシルがジャックの健康管理をすることになったと。 同じ年の 7 月 21 日,シドは再びジュリエットに宛てて, ジャックがシャティヨンコリニーを去り, 祖父母に引き取られたと書いている(2)。

約 6 ヵ月間シャティヨンコリニーで過ごしたジャックの存在が, この結婚を促したことだけは間違いない。 その間コレットは 4 月にパリに行き, 父の戦友の未亡人である女性の家で 3 週間ほど過ごしている。 11 月に再びパリに行ったときには, コレットはゴーティエ一家に紹介された。 結婚式直前の 4 月 21 日に弟アルベールに宛てたウィリーの手紙には, この結婚についてのウィリーの偽らざる気持ちがよく出ている(3)。

(...) J’epouse la fille du Capitaine (de Chatillon), heureux de temoigner ma reconaissancea une famille qui aete, pour Jacques, d’une bonte absolument touchante. Elle n’a pas dedot, d’ailleurs, ce qui ne rejouit pas nos Parents. A leur point de vue, ils ont raison detiquer. (...)
Vous avez realise le mariage d’amour greffe sur le mariage d’argent. Chance presqueunique ! Pour moi, je ne fais pas, oh non! un mariage d’argent.
(…) 僕は (シャティヨンの) キャピテン [コレットの父の愛称, 父は軍隊で中隊長キャピテンだった] の娘と結婚する, ジャックにとても良くしてくれた家族に報いることができるしね。でも持参金はないから, うちの両親には喜んでもらえない。 親の立場からすればそれも一理ありさ。 (…)
君は金銭的な結婚と恋愛結婚を結びつけることができたわけだ。 稀にみる幸運だよ。 僕はまあ, 金銭ずくの結婚なんかするつもりはないがね。

 

弟アルベールは, ベルギー国境に近いアルデンヌ県の銀行家の娘とすでに結婚していた。 コレットとウィリーの結婚式は 1893 年 5 月 15 日にシャティヨンで執り行われたが, 花婿側はパリから友人二人が証人として来ただけで, ウィリーの両親の姿はなく, 田舎の結婚式としては質素そのものであった。 新婚の二人は翌日パリに発った。 ずっと後の 1943 年, コレットの友人ルネ・アモン Renee Hamon は, コレットの自嘲的なことばを日記に書き留めている(4)。


「あの誠実なゴーティエ家の人々がいなかったら, 三年の婚約期間が過ぎてもあの人は私と結婚しなかったかもしれないわ。 母シドは彼を嫌っていた, お前は一生不幸になるといって。母はあの結婚が死ぬまで続くと思っていたのよ。 しょうがないじゃないの, 私には選ぶ余地なんかなかったんだから。 オールドミスになるか, 学校の先生になるしかなかったのよ。 私は彼に 20 歳の若さと 1 メートル 58 センチの髪の毛を持っていってやった。 あの人しばらくはそれを楽しんだわけよ」。


教師になるにはオーセールの師範学校に行かなければならない。 持参金を出すことができない両親には, 娘をオーセールの寄宿舎に入れて師範学校で学ばせることもできなかったのではなかろうか。

 

4. 作家コレットの誕生

新婚の二人はとりあえずセーヌ左岸の Quai des Grands-Augustins 通りにあったゴーティエヴィラール書店の 5 階で, それまでウィリーが寝起きしていた, 二部屋のアパルトマンに落ち着いた。

事務所の続きのような乱雑な部屋, 通りの騒音に閉口したコレットであったが, 二ヵ月半後,二人はすぐ近くのジャコブ街に転居した。 三つ編みにした膝まで届く長い髪, 女学生のような装いのコレットは, 街に出れば人々の好奇の的となったが, 料理をしてくれる女中がいて, 日曜日になると友人たちがやって来る生活に徐々に適応するはずであった。

しかしやがてコレットは 2 通の匿名の手紙によって, 夫に複数の愛人がいることを知らされる。 悪びれる様子もない夫と生活を共にしているうちに, コレットは心身に変調をきたし, ベットから起き上がれないような状態になってしまう。

名医といわれる医者もどうしてよいかわからず, 母シドがパリに呼ばれた。 当時はまだうつ病という病名はなかったらしい。 コレットは 6 月から夏の終わりまで, ブルターニュの大西洋沿岸の町キブロン沖に浮かぶベル島で静養して元気を取り戻した。 この時すっかりブルターニュに魅せられたコレットは, 後年英仏海峡の入江に面した別荘で夏を過ごすようになる。


パリに戻ったコレットにウィリーは提案した, 小学校時代の思い出を書いてみないかと。 この頃ウィリーは新聞のコラムに音楽批評を書くだけでは飽き足りなくなっていた。

小説を出したい。 文学といっても儲かること, それが肝心だ。 そのためには大衆受けするものを沢山作らなければ。 そこで編み出したのは, ゴーストライターたちに本を書かせ, ウィリーが目を通して自分の名前で出版するという方法である。 こうしてコレットと暮らしていた 13 年間だけをとってみても, 50 冊以上の作品が次々に生産されていくことになるのであるが, コレットはその現場を “アトリエ ateliers” と呼んでいる。 そこでコレットは秘書役を引き受けていたのであるが, ひょっとしたらライターとして使えるかもしれないとウィリーは考えたのである。


1895 年 7 月, コレットはウィリーを伴って故郷のサンソヴールを訪れ, 小学校の終業式に出席して恩師テラン嬢の暖かいもてなしを受けている。 翌年初め, 一年以上もかけて学校時代の思い出をびっしり書き込んだ 656 ページの原稿をコレットから受けとったウィリーは, 一瞥するなり,「僕の見込み違いだった, 使い物になりそうもない」 とつぶやきながらそれを引き出しにしまい込んでしまった。 この原稿がウィリーによって “発見” されるのは, それから丸 4 年後の 1899 年 12月のことである。 この年ウィリーの活動はやや精彩を欠いていた。 年末に事務所を整理していたウィリーは, コレットの書いたノートを見つけ, 「屑篭に捨てたと思ったんだが」 と言いながらノートをめくって読み始めると, 「なんて俺は馬鹿なんだ!」 と叫んだ。 コレットは “Et voila comment je suis devenueecrivain. こうして私は作家になった”, と書いている(5)。

この時コレットは 26歳になっていた。


5. 『学校のクローディーヌ』

ウィリーはコレットの書いた原稿をなじみの出版社に持ち込んだ。 2 社で断られた後,Ollendorff 社から 『学校のクローディーヌ』 Claudinea l’ecole が出版されたのは 1900 年 3 月のことである。 ベル・エポックの象徴 電気館と 水のシャトーで知られる万博が一ヵ月後に迫っていた頃のことである。

表紙にはウィリー著とあり, 添えられたウィリーの序文は女性の執筆者がいることをはっきり認めていた。 これまでのものとは異質の本を出すにあたり, 何らかの説明が必要と判断したのであろう。 オランドルフ社側は, 序文は付けないほうが良いと助言したが, 結局“著者ウィリー” の意向が尊重された。 コレット自身は本を手にしたとき初めて序文が添えられたことを知った。 著者がウィリーとなっていることについては, スキャンダラスな内容 ウィリーはこのスキャンダラスな内容ゆえに売れると直感した が周囲にもたらす影響, しかもそれが女性の筆によるとなると社会的にも物議をかもし出すに違いないという思いから, 当時は特に不満を抱かなかった。


「私の名前はクローディーヌ。 モンティニに住んでるの。 1884 年にそこで生まれたのだけれど,死ぬのは多分モンティニじゃないと思うわ」 で始まり, モンティニの地理的説明が続く。

執筆当時22 歳だったコレットは, 15 歳の少女クローディーヌになって, 初等教育最後の年の学校生活を語る。 物語の構成は学年始めの秋から翌年 6 月までの学校生活が全体の半分以上, 学年末にオーセールで行われる資格試験受験の 5 日間の旅が 2 割, 帰郷後の賞状授与式までの描写が 2 割で, かなりの長編である。 片田舎の小学校の日常が続く物語前半の単調さを救うのは, 学校生活での友だちや教師たちに向けられる主人公の辛らつなまなざしである。 母親を伴って新しく赴任したセルジャン嬢と, 19 歳の助教師エメ嬢との妖しい同性愛, そのエメ嬢は男性の助教師のひとりと結ばれる。

たまにやってくる視学監兼校医デュテルトルとセルジャン嬢との噂, デュテルトルのクローディーヌに対するセクハラまがいの振る舞いなどが面白おかしく語られる。 クローディーヌは音楽については先生の代理を務めるほど優れていて, 作文も得意分野, この資質は資格試験でもいかんなく発揮される。 家では軟体動物学者の父と猫との暮らしで母はいない。


破産して故郷のサンソヴールを離れたコレットは, 作品の中で自分の家族についてはほとんど語らない。 しかし他の登場人物にはみなそれとわかるモデルがいた。 視学監のデュテルトルは, 政界に打って出ようとして失敗した父のライバルからつくられた。 あまりにひどい描かれ方に, コレットを一生許そうとしなかった友人もいる。 しかし最大の被害者セルジャン嬢ことオランプ・テランOlympe Terrain 先生は, この本のせいで辞職を考えるほど追い詰められた。 時の流れのなかでコレットを許すのであるが, 視学監との関係は事実無根ではなかったらしく, 1898 年に未婚の母になっていた。

コレットが綴る文章は, 生き生きとした躍動感に満ちている。 老獪なウィリーの手が入っていることは確かであるが, 草稿はウィリーの指示で破棄されてしまい, 残念ながらそれがどういうものであったかを確かめる術はない。 幸い本はよく売れた。 しかし思いがけない反響もあった。 1882年に成立したフェリー法により, フランスでは初等教育の 「無償・義務・世俗化」 の原則が導入された。 公教育の非宗教化は, 聖職者身分証があれば教壇に立てた教会関係者にとって大打撃をもたらしていた。 “公立小学校の内実をあばいた” 『学校のクローディーヌ』 は, カトリック側に神なき学校の荒廃を示すものとして利用される一方, 一部の新聞からは, 非宗教の学校に対する敵愾心をあおる作品であるとして, 著者ウィリーは双方から非難の矢を浴びたのである(6)。

 

6. 『パリのクローディーヌ』

『学校のクローディーヌ』 の成功に気を良くしたウィリーは, 直ちに続編を書くようにコレットに命じた。

こうしてできあがった 『パリのクローディーヌ』 は, ちょうど前作が出た 1 年後の 1901年 5 月初めに出版された。 前作より 3 割程度分量は少ないものの, それでもかなりの大作であり,校正に要する時間を思うと, 半年ちょっとの期間に集中して書かれたのであろう。

 

主人公クローディーヌは 17 歳の誕生日を迎えたばかり。 父とともにモンティニの田舎からパリに引っ越してきた。 落ち着き先はパリ左岸のジャコブ通り。 パリに来てからクローディーヌは病気で 2 ヵ月寝込んでしまい, やっと元気になったので再び日記を書き始めると語る。 病に伏せっていたため髪の手入れができなくて, 自慢の長い髪は切ってしまった 現実のコレットが髪を短くしたのは 1902 年の秋, 29 歳の時である 。 結婚後 7 年を経て 27 歳になっていた執筆当時のコレットは, 4 年前から凱旋門に近いクールセル通りに住んでいたが, それ以前は 3 年半ほどジャコブ通りで暮らしていた。 作品の中のクローディーヌは, クールセル通りに住む父の姉クール伯母さんの家で, パリの社交界のマダムたちに紹介される。 しかしとりわけ親しくなったのは, クローディーヌと同い年で, 伯母さんの今は亡き娘の残した孫息子マルセル。 マルセルは幼いとき母を亡くしたが, ダンディーな父ルノーがいる。 すでに 40 歳になっているルノーは, 音楽会に連れ歩くなどしてクローディーヌの心を捉え, 物語の終わりでは, 父親の許しも得て, 二人はめでたく結婚するのである。


この作品もどの程度ウィリーの手が加えられたのか, 前作同様草稿がウィリーによって破棄されたため知るよしもないが, 性的な表現・逸話が散りばめられている。

マルセルは男性同性愛者で,ウィリーの秘書兼ゴーストライターの一人をモデルにしている。 モンティニを飛び出してきたクローディーヌの旧友リュスは, 訪ねていった親戚筋の裕福な老人に囲われる身となるという具合。

しかしモンティニの自然を描写する筆は, 都会人ウィリーとは無縁であろう。 モンティニの自然は,『学校のクローディーヌ』 で本筋に入る前に詳細に紹介される。 モンティニでは, 大地は森に覆われていて, その中に耕作地と緑の草原が点在している。 森には美しい花が咲き誇り, 小動物たちの楽園である。 その楽園を散策する楽しみはなにものにもかえがたいとコレットは書く。 現実のサンソヴールアンピュイゼは, 丘の上の広場から斜面に広がる小さな村である。 ブルゴーニュの南端にあって, ポヨド Poyaude と呼ばれるこの地方は森と沼が多く, 作物は余り育たないやせた土地である。 ブルゴーニュと聞くと, 人はディジョンを中心とする, 上質なワインを産する丘陵地帯コート・ドールを思い浮かべるが, それとは較べようもない。 木立のトンネルを抜けると沼が見える風景は確かに美しいが, そこに暮らす人々は狩をし, 森の木を切って生活してきた。 人口は減り続け, 16 歳のクローディーヌがオーセールに行く時に乗った汽車も廃線となり, 現在はパリとオーセールを結ぶマイクロバスが週二, 三回通るだけでさながら陸の孤島である。

しかしこうした貧しい大地を, 緑豊かな美しい自然として描くとき, コレットの筆はさえたものになる。 森では人間も動物も自然の前に平等である。 コレットの動物好き, 植物好きはつとに知られているが, 彼女のたくましい生命力も森を駆け回る少女時代に育まれたものであろう。 『学校のクローディーヌ』 における 16 歳の少女クローディーヌは, こうした自然の中にいて, その欠如を嘆く必要はなかった。


思春期の少女の関心はもっぱら教師や友だちの動向に向けられていた。 パリに出たクローディーヌにとって, 故郷の森は失われた楽園である。 人は失われたものに思いを馳せる。 想像の中でそれはしばしば美化され浄化される。

 

コレット研究の第一人者クロード・ピショワは, この作品のなかの 2 箇所をあげて, コレットはフランス文学のなかで, ルソー, シャトーブリアン, ネルヴァル, ボードレール, プルーストに連なる線上に位置すると指摘している。 たとえばそれは, 重い病気から脱してやっと回復に向かっている 『パリのクローディーヌ』 の主人公がつぎのように語る部分である(7)。


Pauvre papa, n’a-t-il pas failli remettre tout en question un matin de fevrier, en
m’apportant un bouquet de violettes ! L’odeur des fleurs vivantes, leur toucher frais, ont tire d’un coup brusque le rideau d’oubli que ma fievre avait tendu devant le Montigny quitte. . . J’ai revu les bois transparents et sans feuilles, les routes bordees de prunelles bleues fletries et de gratte-culs geles, et le village en gradins, et la tour au lierre sombre qui seule demeure verte, et l’ecole blanche sous un soleil doux et sans reflet ; j’ai respire l’odeur musquee et pourrie des feuilles mortes, et aussi l’atmosphere viciee d’encre, de papier et de sabots mouilles, dans la classe.

かわいそうなパパ, 2 月のある朝, パパは私にすみれの花束を持ってきてくれたのだけれど,それが反ってすべてを逆戻りさせそうになった! かぐわしい花の匂い, みずみずしいその花に触れたとたん, 熱のせいで懐かしいモンティニの前に降りていた忘却のカーテンがさっと切って落とされた。 葉が落ちて見通しのきく林, しおれた青いプラムの木と凍った野バラに縁取られた道, 坂のある村, そこだけ緑の残る, 濃いきずたがからまった塔, 柔らかい陽射しを受けて明るくみえる学校などがまぶたに浮かんだ。 朽ちた枯葉から立ち上る麝香の香り, 教室に広がる, インキや紙や濡れた木靴の匂いがないまぜになった空気を私は吸った。

 

プルーストの 『失われた時を求めて』 にある, あの有名なマドレーヌ菓子の一節を想わせるこの部分は, プルーストの大作が発表される 12 年前に書かれている。

 

7. 『家庭のクローディーヌ』

『パリのクローディーヌ』 では, 主人公クローディーヌとルノーの結婚が決まったところで物語が終わった。

『家庭のクローディーヌ』 では, 結婚式と新居への引越し, 故郷モンティニからバイロイトへの旅, 冬の地中海への旅, 夫をとりまく社交界へのデビューなど, 結婚後の生活の変化が語られる。 そして物語の初めから, クローディーヌが夫ルノーにすっかり嫌気がさしてしまっていることが明かされる。 ふたりの生き方の根本が違うのだ。 日増しに嫌悪感を強めながらも生活をともにしていく中で, クローディーヌはいつしか小説のメインテーマであるルノー的な世界にいざなわれ, 踏み込んでゆく。

そうした心の動きは, 前二作にはみられなかった心理描写となって, この小説を大人の物語にしている。 全体の 3 割にあたる, 長いプロローグの終わりで, 娘婿のルノーにもパリにもうんざりしたクローディーヌの父は, 女中と猫を連れてモンティニに引き上げてしまう。


ところでこの本のタイトルは, 後述するように最初予定されていた 『恋するクローディーヌ』Claudine amoureuse の方が相応しい。

なぜならプロローグの後に始まるメインテーマは, 主人公クローディーヌと, レジことマダム・ランブルク夫人との同性愛だからである。 クローディーヌの同性愛の相手となるレジのモデルが, フランス人の夫を持つ若いアメリカ人女性ジョルジー・ラウルデュヴァルであることは誰の目にも明らかだった。 1901 年の春頃からコレットとジョルジーは特別な関係になり, 8 月にウィリー夫妻はジョルジーを伴ってバイロイト音楽祭に出かけている。


しかしバイロイトから帰ってすぐに二人の仲は決裂し, その直後にコレットはこの作品の執筆に取りかかったらしい。 この物語は, 妻とレジのレスビアン関係を容認し, 逢引の場まで提供してくれたはずの夫ルノーが, 実はレジと二人でそこで逢っていたという事実をクローディーヌが知るに及んで, 一挙に結末に向かう。 クローディーヌは故郷モンティニに逃げ帰り, パリのルノーとは縁を切るのである。


『学校』 のクローディーヌは 16 歳で, まだおてんば娘だった。 『パリ』 のクローディーヌは, パリのなにもかもが珍しく, 伯母さんやマルセルを通してこの町とそこに暮らす人々を観察し, ダンディーな中年男ルノーに絡め取られてしまう, 17 歳のけなげな少女である。 しかし 『家庭』 のクローディーヌになると, この本が出版された 1902 年当時コレットはすでに 29 歳, 結婚して 9 年が経ち, 夫ウィリーの浮気に悩み, みかけの華やかさとは裏腹に満たされない思いを味わっていた。


虚構の世界のクローディーヌと現実のコレットとのあいだに, 時間的, 心理的なずれはあまりないといえよう。
この作品はウィリー著 『恋するクローディーヌ』 として 1902 年 3 月にオランドルフ社から刊行されたが, 書店に並ぶ前にジョルジー・ラウルデュヴァルが買い占め, その網の目を逃れたものがこれまでに 5 冊確認されているものの, そのほかのものはすべて葬られてしまった。 しかし “著者ウィリー” は, 同じ本を 『家庭のクローディーヌ』 と題してこの年の 5 月にメルキュール・ド・フランス社から出版することに成功した。 ラウル夫人の画策は無駄だったことになる。


クローディーヌもの前二作と異なり, 『家庭のクローディーヌ』 の草稿はコレットの手元に残されていて, コレット亡き後, 三番目の夫モーリス・グドケによって 1963 年に国立図書館に寄贈された。 草稿からみたウィリーの関与については, ポール・ドランデがその概要をまとめている(8)。


ドイツ語や英語, 時には古典語をちりばめたがる癖, いずれ脚色したいと考えてのことか, 会話はなるべく短くと, ウィリー個人の趣味や考えが読み取れる。 その一方で形容詞・副詞を厳選し, 同じ動詞の重複を避けるといった語句の修正は, 文章を引き締める効果があった。 しかしこうしたウィリーの手直しは, 校閲者としての手直しの域を出ないのではないか。 クロード・ピショワは, 『家庭のクローディーヌ』 について書かれた記事のなかで最も優れていながらフランスではあまり知られていないものとして, 1902 年に Revue de Belgique に寄せられた A. Mockel の書評を紹介している。 心のこもった, 美しい賛辞の一部を見てみよう(9)。


Avec, de-ci de-la, une locution patoise qui lui donne l’acide et franche saveur des pommes de verger, la prose de M. Willy a parfois mille elegantes finesses melees de familiarites qui la montrent bonne fille ; c’est alors l’aisance delicieuse d’un style qui vautz quasi mieux que le style. Tout y est invente. La page n’est jamais redigee, mais ecrite ; je veux dire que les phrases n’y sont point regulierement alignees comme les plantes mortes d’un herbier, mais qu’elles ont le fremissement balance de la fleur vivante.
(...)
Peut-etre affirmera-t-on que c’est la le resultat necessaire de la methode
impressionniste. Je ne le pense pas, ni sans doute M. Willy lui-meme, puisqu’en ce dernier livre il en vient peu a peu a user de toutes les ressources litteraires qu’il negligeait d’abord. Plus riche et mieux nombree, la phrase semble toujours spontanement jaillie de “l’impression”. Mais cette illusion ne se donne qu’a prix d’art : on n’est point naturel sans beaucoup de talent.
もぎたてですっぱい, 果樹園のりんごのようなお国ことばを散りばめたウィリー氏の文章は,素朴ながら極上のエレガンスを垣間見せることがある。 そうなるともう並みの文ではない。 流れるように心地よい文になる。 すべては創造の賜物だ。 そうしたページは整理されただけのものではない。 つむぎ出されたものである。 いってみればそうした文章は, 植物標本のようにきちんと並べられているのではなく, みずみずしい花の躍動をたたえているのだ。 (…)
それこそ印象手法の必然の結果だと, 人は言うかもしれない。 だが私はそうは思わない。 たぶんウィリー氏自身も同じ考えだろう。 なぜならこの新刊本では, 手持ちの表現手法を, 初めはとどめおいて, 少しずつ, 最後には全部出し切ってしまう。 文章は徐々に質を上げ, 量も増えていくので, 絶えることなく自然に “印象 [という泉]” から湧き出てくるようにみえる。


しかしそう見えるのは, 優れた技巧のなせるところに他ならない。 あふれる才能がなければ,自然にみせることなど不可能なのだ。
モッケルのこの分析に, ピショワはつぎのような彼自身のことばを添えている。
Si Claudine a trouve soname, Colettte a trouve son grand art.
クローディーヌが自己の魂を発見したとするなら, コレットは自己の絶妙な技巧を見いだしたのだ。


当時の社交界では, 女性同性愛者を自認するナタリー・バーネイなどが文学サロンを開いていたものの, 同性愛が社会通念上タブーであったことに変わりはない。

そうしたデリケートなテーマを扱いながら, コレットの筆はけっして堕することがない。 人間の情念を描きながら, 描写は美しく抑制がきいている。 モッケルに言わせれば, そこにこそ作者の力量があらわれているということになろう。

クローディーヌがレジの姿を, 身じまいの所作を描写してみせるとき, のちにコレットの作家としての地位を不動のものにする 『シェリ』 (1920) のヒロイン, レアの姿が重なって見えるのは筆者だけであろうか。


『家庭のクローディーヌ』 はそれまでの二人の生活が災いして, 作品そのものの評価より先に,スキャンダラスな面ばかり強調されてしまった嫌いがある。 当時のそうした状況のなかで出されたA. Mockel の書評は, コレットをいかばかり勇気づけたことだろう。 しかしそれが “著者ウィリー氏” に向けられているゆえのコレットの無念さも忘れてはならない。


『家庭のクローディーヌ』 は良く売れた。 発行から 1908 年までで, 『学校のクローディーヌ』 と『パリのクローディーヌ』 はそれぞれ 54,000 部と 55,000 部印刷されたが, 『家庭のクローディーヌ』は 1907 年までに 60,000 部印刷されている。 『家庭のクローディーヌ』 は発売から 4 年の間に, 推定 43,200 フランをウィリーにもたらした(10)。

 

しかしこの大金はウィリーやコレットの手元に残らなかった。 ウィリーがギャンブルにすべてつぎ込んでしまったからである。

 

8. 『クローディーヌは行ってしまう』 から 『動物の対話』 へ

ウィリー著 『クローディーヌは行ってしまう』 (アニーの日記) Claudine s’en va (Journal d’Annie) は 1903 年 3 月に出版された。 量的にはそれ以前のどれよりも短いものの, 『家庭のクローディーヌ』 の 8 割弱の長編である。

語り手である主人公は, 南米に航海に出た夫の留守を守るアニー。

 

クローディーヌはアニーの友人という脇役である。 パリにひとり残されたアニーは, 義妹やクローディーヌが開くパーティー, ラルカード夫人の夜会などに顔を出し, 夫の留守の時間を埋める。 アニーを取り巻く人々は, 季節が来ればアリエージュ (モデルはグルノーブル近郊のユリアージュ)で湯治をし, バイロイトで音楽祭を楽しむ。

パリに戻っても落ち着かないアニーは, カザメーヌ(モデルはブザンソンに近いモンブッコン) に女中を連れて発つ。 しかし夫の帰国が近づく。 パリに戻ってきたアニーのもとを訪れたクローディーヌにアニーは, 夫の浮気の証拠の手紙を見つけたから離婚するつもりと告げる。

アニーとクローディーヌの間には友情以上の感情が暗示されているが, クローディーヌも夫のルノーだけを大切にするつもりと言ってアニーのもとを去っていく。


『家庭のクローディーヌ』 のつぎにこの本を手にとった読者で, 落胆しないひとはいないだろう。
三部作にあやかろうと, 断片的な材料をつなぎ合わせてなんとか仕立て上げたという思いを抱くはずだ。 クローディーヌ三部作は 『家庭のクローディーヌ』 までと考えて, この作品は枠外に置くべきだろう。


『クローディーヌは行ってしまう』 は, それまでのクローディーヌ三部作のおかげで, 売れ行きは上々だった。 それには, “クローディーヌ” を舞台に上げるというウィリーのアイディアも大いに貢献したに違いない。 『家庭のクローディーヌ』 が世に出る 4 ヵ月前の 1902 年 1 月 22 日, ウィリー他 2 名の翻案でまとめられた三幕ものの芝居 『パリのクローディーヌ』 がブッフ・パリジャン座で上演された。 クローディーヌ役は歌手として活躍していたポレールで, 123 回の連続公演という盛況ぶりであった。 この年の夏ウィリーは, フランシュコンテ県のブザンソンから 4 キロ北にある村モンブッコン Monts-Boucons に 2 年前に購入してあった別荘に, 8 ヘクタールの牧場とぶどう畑を買い足した。

 

コレットはモンブッコンの自然に魅せられ, 犬猫連れでやって来ては,仕事をした。 こうして出来上がったのが 1904 年 3 月に出された 『動物の対話』 Dialogues de betesである。 これは, コレットのそばで暮らす犬と猫がまわりの人々のことを観察してうわさ話をするという, 4 篇の対話をまとめた作品である。 著者は Colette Willy と記されている。 コレットが実名で世に送った初めての作品として意義深い。

ピレネー地方で暮らすフランシス・ジャムのファンだったコレットは, これを一冊ジャムに贈呈した。 一年後, コレットは新たに 3 篇を追加し, 依頼に応じて寄せられたジャムの序文をつけて出版した。

 

9. ウィリーとの別れと自立

クローディーヌシリーズの成功によって, ウィリーとコレットは経済的に潤い, 『家庭のクローディーヌ』 が出た 1902 年に, 近くにもっと広いアパルトマンを見つけて引っ越し, 上述のようにモンブッコンの土地も買い足した。

パリでは社交界の話題を集め, 夏はバイロイト, 冬は避寒の作家はどのように誕生するかためコート・ダズュールに移動し, ウィリーはモンテ・カルロで賭けに興ずる。 だがそうした生活を支えるヒット作品を出し続けることはそう簡単ではない。 やがてウィリーは債権者に追いかけられるようになる。

1905 年の秋にはモンブッコンの家も土地もすべて手放し, コレットはまたもや楽園を失ってしまう。 自活しなければならなくなったコレットは, 1906 年 2 月, マテュラン座 Theatre Mathurins でパントマイム役者としてデビューした。

 

やがてミッシーこと男装のマチルド・ド・モルニー公爵夫人と共演するようになり, 二人は特別な関係になっていく。 1906 年 11 月,ウィリーは愛人と暮らすための住居を見つけて出て行き, コレットはミッシーのすまいの近くのアパルトマンに引っ越した。

こうして 13 年の結婚生活には終止符が打たれた。 1907 年 2 月に法律上成立した離婚が公表されたのは, 1910 年 6 月のことだった。 その後のコレットは, 1912 年にアンリ・ド・ジュヴネルと二度目の結婚をするまで, 舞台を生活の糧としながら, 楽屋では日々の体験をノートに綴っていた。

 

金策に窮したウィリーは 1907 年の秋, 『学校のクローディーヌ』, 『パリのクローディーヌ』, 『クローディーヌは行ってしまう』 の三作品の版権をポール・オランドルフに, 『家庭のクローディーヌ』 の版権については, メルキュール・ド・フランスの社主アルフレッド・ヴァレットに売却してしまう。

コレットがこの事実を知ったのは, 1909 年 1 月のことであった。 コレットにとって, これは経済上の損失以上のことを意味した。

クローディーヌシリーズの作者がウィリーとなっていることは確かだ。 事実われわれは, 『学校のクローディーヌ』 が出た当時, コレット自身が著者を名乗ることを潔しとしなかったことを忘れたわけではない。 しかしウィリーと別れた今となっては,コレットに言わせれば, 彼の果たした役割は, 駄洒落やきわどいことばを挿入し, 作品の中で他人を中傷するようにコレットをそそのかす, その程度のものだった。 ウィリーによって損なわれた作品を, 機会があれば手をいれて浄化したいと考えていたコレットは, 共著であってもよい, 著者に自分の名前を加えること, なんとしてもこれだけはウィリーに認めさせる必要があった。 ウィリーから譲歩を引き出すためにコレットがとった手段は, 伝記作家の伝えるところによれば, ウィリーに誘惑されたうえ, ゴーティエヴィラール書店への出資話と思わせて大金をだましとられた女性に, ウィリーを訴えるようにしむけ, 窮地に立たされたウィリーに, 条件次第で仲裁役をしても良いともちかけるものだった。

 

この訴訟事件が表面化するのは 1909 年末のことであり, それはちょうどコレットが手強いウィリーから譲歩を引き出した時期と一致するためにこうした説が浮上するのであるが, ウィリーという人物は本物の詐欺師だったようである。

こうしてコレットは, その後に刊行されるクローディーヌものでは著者として 「ウィリー」 の後に, 当時のコレット自身のペンネームであった 「コレット ウィリー」 を追記させることに成功する。

1948 年以降はウィリーの名前は姿を消して, たんに 「コレット」 となる。 もっともコレットが亡くなった翌年の 1955 年,ウィリーの息子ジャックは, オランドルフ社の経営権を引き継いだアルバン・ミシェル社に対し,著者を 「ウィリーとコレット」 にするよう求めたが, 著者としてのコレットの立場は変わらなかった。


別居した後もウィリーはコレットをアトリエの一員と思っていたらしい。 1906 年, 思いがけないことにコレットはウィリーから, 『正直おじいさん』 Un petit vieux bien propre (1907 年, ウィリー著) のために, 1,000 フランで 20 行ほど風景描写をしてくれとの依頼を受け, いぶかりながらもそれに応じている。

しかし版権にまつわるトラブル以降, 二人の仲は険悪になった。 コレットは『さすらいの女』 La vagabonde (1910 年) で, 登場人物のひとりである画家の姿を借りてウィリーを揶揄し, これに腹を立てたウィリーは, 同じやり方でコレットを貶めたのだった。

 

晩年経済的に苦境にあったウィリーに, コレットが少しは手を差し伸べてもよいのに, と思う友人もいた。 しかしコレットは, ウィリーを援助しようという呼びかけに応じようとはしなかった。

 

10.結 び

ウィリーが亡くなってから 5 年後の 1936 年 1 月, 63 歳になっていたコレットは, 30~40 年前の,ウィリーと過ごした 13 年間の日々を回想した作品 『わたしの修業時代』 を発表した。

10 年来のパートナーで, 3 番目の夫モーリス・グドケと正式に結婚した翌年のことで, この年コレットは, レジオン・ドヌール 3 等勲章の叙勲に加えて, ベルギー王立アカデミーの会員に推挙されている。


『パリのクローディーヌ』 に登場するアンリ・モージスという人物こそ, ウィリーが自分自身について語ったものであるとしたうえで, コレットはその姿を再現してみせる(11)。

 

「父親まがいの欲情に燃えている」 このモージスという人物, 女と舶来の酒と駄洒落が大好きで, 音楽評論をやり, ギリシアの文芸に精通し, 学があり, 決闘をいとわず, 感じやすくてしかも厚顔無恥, 涙をかくして人を冷やかし, 鷽 (うそ) のような太鼓腹をして, 肌着姿の浮かれ女たちには 「ぼくのベビー」 と呼びかけ, ヌードよりはネグリジェを, 絹のストッキングよりはソックスが好みだという男 このモージスは私の創作ではない。

ウィリー側の人々は, この作品でコレットはウィリーを故意に悪く描いていると非難したが,それなりに評価している部分がないわけではない。 コレットによれば, ウィリーには文学者としての資質はまったくなかったが, 別の才能があった(12)。

 

文学以外の領域ではあれば, われわれの流行作家は, とても活動的で, きちょうめんで, 発想ゆたかな人間だったことを認めなければならない。 彼にむいていたのはなによりも, 編集長のポストだったのではないかと, わたしは今でも考えている。 仕事を配分すること, 人の能力を的確に見抜くこと, 相手を刺激するたくみな論評, 判定はするけれどあまり褒美はやらないという方式, こうしたものはめったにない資質だとわたしは思うのだが, それを発揮するところがまちがっていた。

 

30~40 年後に書かれた回想録に登場するウィリーは, コレットの心に刻まれたものの中から作品化されたウィリーであって, すべてを現実のウィリーに帰することは適切ではない。 辛い修業時代があってこそ今の自分があるということを読者に伝えるためには, 共に過ごした楽しい思い出は封印して, ウィリーには憎まれ役を演じてもらう必要があった。 ウィリーとの生活では幅広い人々との出会いがあり, 人間観察の機会が与えられた。 それは文学者として貴重な経験だったに違いない。 コレットが非難して止まないウィリーであるが, それでもやはりウィリーは, 作家コレットの生みの親であるといわざるをえない。

 

また生活者としてのコレットは, ウィリーとの生活に終止符を打った困難な時期に, とにかく他人に頼らないで生きる決意を固め, 結局それは, 終生ペンを走らせ続けることになったのである。


《注》
( 1 ) Caradec (2004) p. 63

( 2 ) Pichois et Brunet (1999) pp. 6263

( 3 ) Caradec, op. cit., p. 71

( 4 ) Pichois et Brunet, op. cit., p. 57

( 5 ) Caradec, op. cit., p. 126

( 6 ) Ibid., p. 136

( 7 ) Colette (1984) p. 231

( 8 ) Ibid., pp. 13331336

( 9 ) Ibid., pp. LXXVLXXVI

(10) Pichois et Brunet, op. cit., p. 133

(11) コレット (1936), 工藤庸子訳 (2006) p. 111

(12) Ibid., pp. 115116

 

参考文献

Caradec, F. (2004): Willy le pere des Claudine, Fayard, Paris

Colette (1984): uvres I (Pleiade), Gallimard, Paris

Pichois, C. et Brunet, A. (1999): Colette, Fallois, Paris

コレット (1936), 工藤庸子訳 (2006):『わたしの修業時代』, ちくま文庫

 

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